[Cartoon]

CLL 第12章 犬小屋とホワイトハウス~ルジヴォの PS を決める

1. ルジヴォがある理由

ロジバンには1350個以上のギスムがある。 ギスムだけでロジバンの語彙が揃うようには作られていないし、意味素 (# semantic primitives) の最小リストとなるようにも作られていない。 ギスムのリストはルジヴォ(複合語)を作るための基礎となる。 世界中のすべての言語で表現できる一千万個程度の概念に対応する適切なルジヴォが作り出せるように、ギスムのリストが作られている。 ただし、意味論的に言って広く浅い分野(文化・国・食べ物・植物・動物など)の概念は除く。 文法的には、ルジヴォはギスムに似た振る舞いをする。 ルジヴォには PS があり、セルブリとして機能する。

ルジヴォはタンルの圧縮した形をしている。

1.1)   ti fagri festi
       それは火のゴミだ。 
この中のタンルは以下のようなルジヴォに圧縮できる。
1.2)   ti fagyfesti
       それは灰だ。 
ルジヴォ「fagyfesti」はタンル「fagri festi」から派生しているが、意味は同じではない。 特に、「fagyfesti」には独自の PS があり、「festi」の PS とは異なる。 タンルからルジヴォを作る際に、「be ... bei ... be'o」(第5章)に相当するような、スムティをルジヴォに組み込む仕組みは無い。

ロジバンにルジヴォがある理由は何か? 第一に、意味の曖昧さを減らすためだ。 タンルの意味は曖昧なので、意味を理解するための負担を聞き手に強いる。 ルジヴォには決まった PS があって、意味は1つに決まっているので、よく使われるタンルをルジヴォ化すれば、聞き手の負担を減らすことができる。 それに、ルジヴォはタンルより短くなる。

新しく作られたルジヴォの PS を決めるための絶対的な規則は無い。 ルジヴォを作るには、タンルのすべての構成要素の PS を考慮に入れた上で、適切な PS を取捨選択しなければならない。 この章ではそのための指針を与えるが、これは考えられうる基準の一つに過ぎない。 これに取って代わる指針も今後出てくるだろう。 こういった指針を与えるのは、ロジバン話者がルジヴォの適切な PS を決めるための取っ掛かりを得られるようにするためだ。 誰がそのルジヴォを見ても、同様の考察で同じ PS にたどり着くなら、それが適切な PS である。

タンルに「bo」、「ke」、「ke'e」、「je」のような接続シマヴォや「se」のような転換シマヴォ、「nu」のような抽象シマヴォが含まれている場合、このシマヴォをルジヴォの中に組み込む方法がある。 これらのシマヴォを組み込むと、ルジヴォが長くなりすぎることがあるので、その場合はシマヴォを省略しても良い。 そうすると、複数のタンルから同じルジヴォが導き出される可能性が出てくる。 しかし、そういったタンルのうち、ルジヴォを作る意味があるほど有用なタンルは、概して1つだけだ。

ギスムやシマヴォからタンルを構成し、そこからルジヴォを作るというアルゴリズムの厳密な働きは第4章で述べられている。

2. タンルの意味(回り道になるが、必要な説明)

ルジヴォの意味は元になるタンルの意味に左右されるが、同じではない。 1つのルジヴォに対応するタンルを、ロジバンでは「ヴェルジヴォ (veljvo)」と言う。 さらに第5章の用法に従って、タンルの左部分(修飾する方)を「セルタウ (seltau)」と言い、右部分(修飾される方)を「テルタウ (tertau)」と言う。 簡略化のために、以下では「ルジヴォのセルタウ/テルタウ」という言い方をするが、これはもちろん「ルジヴォのヴェルジヴォのセルタウ/テルタウ」を指す。

タンルの PS は常に、そのテルタウの PS と同じだ。 その結果、タンルの意味はテルタウの意味に修飾を加えたものになる。 タンルの場所に入るものの集合は、そのテルタウの場所に入るものの集合の部分集合となることが多いが、必ずそうなるわけではない。

# 多いが必ずそうなるわけではない、タンルとテルタウの関係:
#
# どういうタンルだとこうならないか? dukti xamgu, nafte xamgu など?

タンルの用途は、セルタウの厳密な意味に必ずしも着目せずに、複数の概念を結びつけることだ。 例えばイリアス (Ἰλιάς / Iliad) の中で、詩人ホメーロスが「ワインの暗色の海」について話すとき、「ワインの」は「暗色の」のセルタウであり、「ワインの暗色の」は「海」のセルタウである。 ここで話題になっているのは海であって、ワインや色ではない。 そこに「ワインの」や「暗色の」という表現があるのは、一つには、聞き手の心の中に情景を描かせるためだ。 その情景の中で、登場人物たちの活動が繰り広げられることになる。 また、海を同じような仕方で描写した当時の他の英雄譚との関係を呼び起こすためでもある。 ワインと色についての論理的な推論は、的外れのものとして却下される。

# 原文では οἴνοπα πόντον (「οἶνοψ ワイン+表情」の対格、「πόντος 海」の対格)の形で出てくることが多い。
# οἶνος は wine 、 ὄψ は voice, the eye, face, appearence という意味だから、原文には「暗色の」という意味はない。
# 「当時の他の英雄譚」中の「ワインの表情の海を (οἴνοπα πόντον)」の検索結果:ウィキソースペルセウス
# 的外れのものとして却下される、ワインと色についての論理的な推論(英文)および実験(ロジバン文)

簡単な例として、あまり自明ではないタンル「klama zdani(行-家)」を考えよう。 「zdani」というギスムには2つの場所がある。

# 原文では、 klama zdani について goer-house としているが、セルタウの x1 だけがテルタウを修飾するわけではないので、訳は(行-家)とした。

2.1)   x1 は x2 の巣/家/ねぐら/アジト
「klama」というギスムには5つの場所がある。
2.2)   x1はx2(終点)にx3(起点)からx4(経路)をx5(方法)で行く/来る

「klama zdani」というタンルにも「zdani」と同じ2つの場所がある。 「klama zdani」は「zdani」の一種だから、「行-家」であるものは全て、どういう意味であれ、「家」である。

しかし、テルタウの場所を知っていさえすれば、タンルの意味を理解できるというわけではない。 例えば、「gerku zdani (犬-家)」という例を考えよう。 タンルというものは、とても緩い関係を表している。 「gerku zdani」は犬と何らかの関係がある家である。 もっと明確な関係があるかもしれないが、それは明言されていない。 だから「lo gerku zdani」には、以下の意味全てが含まれる:犬が住む家、犬が作った家、犬である家(蚤が住む家として)、犬にちなんで名付けられた家など。 いずれにしても本質的に「zdani」の PS が適用される。

ロジバンの「gerku zdani」として限定されるもの z1 は、何よりもまず、家である。 家であるからには、その居住者 z2 がある。 さらに、どこかに犬 g1 がいる。 ロジバンでは、 g1 が犬であれば、それは何らかの品種 g2 に属していることになる。 z1 を「gerku zdani」の x1 として、これが単なる「zdani」と対比されるからには、「zdani」のある場所と「gerku」のある場所との間に何らかの関係 r が成り立つことになる。 r が成り立つ場所はどれでも良い。 なぜなら、 z2 と g2 の間に関係 r 成り立てば、 z2 と g1 の間にも、「gerku」の PS 内の各場所の間の関係と r とを合成した関係 r' が成り立つからである。 z2 と g2 の間に関係 r が成り立つことが判明すれば、 r を z1 と g1 で記述できる:「その関係は、犬 g1 の品種が家 z1 の居住者と関係があることを意味する。 」

# 否定という関係を含めれば、あらゆるものの間に何らかの関係がある:「z1 は非 g1 が住む家」という関係 r が z1 と g1 の間に成り立つという解釈がありうる。そうすると「gerku zdani」と「zdani」との違いは何も無いのではないか?
# z2, g2, g1 の関係:
# セルタウ、テルタウ、タンルの関係:
#
# すべての r からなる写像 R を考えると、セルタウの場所に入るものの集合(青い枠内)部分集合(水色の枠内)から、テルタウの場所に入るものの集合(赤い枠内)の中への写像 R の値域が、タンルの場所に入るものの集合(緑の領域)になる。

以下の例は読者の息抜きになるはずだ。 ホワイトハウスは「gerku zdani」であると見なせるか? このタンルについて、5つの変項 z1, z2, g1, g2, r がどうなるか見てみよう。 ホワイトハウスは z1 だ。 そこには z2 としてビル・クリントン(# 当時)が住んでいるから、ここに「zdani」という関係が成立している。 犬はどうか? g1 としてスポット(# 実際にはバディ Buddy)がいる。 スポットは何らかの品種 g2 であるはずだ。 それをセントバーナードとしよう(# 実際にはラブラドル・リトリヴァー)。 こうして、ホワイトハウス z1 とスポット g1 との間に何らかの関係 r が成り立てば、ホワイトハウスは「gerku zdani」であると見なせる(ここでは z1 と g1 を取り上げたが、他の組み合わせを選んでも構わない)。

r の選択肢は青天井だ。 r は「ある日、スポット g1 が猫のソックスを追いかけたが、ソックスの飼い主はチェルシー・クリントンであり、それはホワイトハウス z1 に住んでいるビル・クリントンの娘だ。 」という関係でありうるし、もっと複雑な関係でも良い。 そういう r が見つからない場合は、別の犬を持ってきて r を探し、それでもダメならまた別の犬を、という具合に、もう犬が見つからなくなるまで繰り返す。 それでも r が見つからないときに初めて、ホワイトハウスは「gerku zdani」の x1 となり得ないと言える。

このように、「gerku zdani」の定義には最低5個の要素が関係している。 「家、その居住者、犬、その品種、家と犬の関係」である。 ロジバンのタンルは曖昧であることが明示されているので、関係 r をタンル内で表現することはできない(それができてしまったら、もはやタンルではない!)。 しかし r 以外の要素は以下のように表現できる。

2.3)   la blabi zdani cu gerku be fa la spot.  bei la sankt. berNARD. be'o
             zdani la bil. klinton.
       ホワイトハウスは、ビル・クリントンが住む、スポットというセントバーナード種の犬的な家だ。 
ロジバンでも日本語でも簡潔な文ではないが、スポットとホワイトハウスの間に何らかの関係が成り立っていれば、例 2.3は結論として真である。 「gerku zdani」は「犬小屋」という意味だけに限定されない。

3. ルジヴォの意味

それでは「犬小屋」という意味を表すためにはどうすれば良いか? これまでわざと明言しなかったが、タンルの意味を決める要素の一つは、テルタウとセルタウの厳密な関係である。 この関係を決めることは、曖昧なタンルに1つの解釈を与えることに等しい。

ルジヴォというものは、タンルの曖昧さを取り除いた単一の解釈によって定義される。 つまり、ルジヴォの PS を構築するために、テルタウとセルタウの関係を新たに見つけ出す必要はない。 テルタウとセルタウの関係は、何を表現したいかによって決まり、その関係に従ってルジヴォ自体の PS が定義される。

従って一般的には、ルジヴォを作ってその PS を定義する際に、その造語の具体的な使われ方をいくつか考慮するべきだ。 そうしないと、関係 r について間違った一般化をしてしまうだろう。

この先、本章の議論で考慮しているのは次のようなことだ。 タンルで表現される関係が非常に遠い関係になりうる(先ほどの、スポットがソックスを追いかけ云々という例)のに対し、ルジヴォの非曖昧性のために1つに絞られる関係は、かなり近い関係であるべきだ。 なぜなら、ルジヴォの作成は、自然言語における複合語の作り方と同様、1つの単語で表現されることになる、テルタウの場所とセルタウの場所との最も突出した関係 r を抽出するからだ。 「犬が、家に住む人の娘の猫を追いかける」という関係は、犬と家の関係としては遠すぎ、偶発的すぎて、わざわざ1つの短い単語で表す必要が無さそうだ。 「犬が家に住む」という関係なら、そういうことがない。 「gerzda」を作成する者は、「gerku zdani」の全ての解釈から、いちばん役立つ r を抽出しなければならない。 普通は、いちばん役立つ関係がいちばん明らかな関係であり、いちばん明らかな関係がいちばん近い関係である。

実際ほとんどの場合、その関係はとても近いので、 r を表す述語は、セルタウかテルタウの述語そのものである。 「zdani」などのロジバンの単語は述語なので、これは驚くに値しない。 述語というものは関係を表すのだから、「le zdani」と「le gerku」とを結びつける関係を探すとき、抽出すべきいちばん明らかな関係は、まさにテルタウ「zdani」によって指定された関係、つまり家とその居住者との関係である。 結果として、「gerku」の x1 (犬)に入るものが「zdani」の x2 (居住者)にも入っている。

ヴェルジヴォの中のセルタウとテルタウの関係は、そのセルタウやテルタウの述語自体が表している。 したがって、セルタウの場所の少なくとも1つは、テルタウの場所のどれかに等しくなる。 このように重複する場所は1つ余分になるから、余分になった場所はルジヴォの PS に入れなくてよい。 結果的に、ヴェルジヴォの構成要素間の厳密な関係は、このように重複する場所をいくつか見つけることによって、暗に定義できる。

では、「gerzda」の PS はどうなるか? 居住者「se zdani」が犬「gerku」と同一であることがわかっているから、残っている場所は3つで、次のように考えを進めることができる。

第2節で臨時に導入した表記法は、本章のこの先の記述でも役に立つ。 場所を表す標準的な x1, x2 といった記号を使わず、 x の代わりに、関連するギスムの頭文字を使うことにしよう。 頭文字1個だけではどの場所か曖昧になってしまう場合は、ギスムの最初の2個以上の文字を使う。 これに従えば、 z1 は「zdani」の x1 であり、 g2 は「gerku」の x2 である。)

「zdani」の PS は例2.1に書いたが、新しい表記法で書くと以下のようになる。

3.1)   z1 は z2 の巣/家/ねぐら/アジト
「gerku」の PS は以下のようになる。
3.2)   g1 は g2 種のイヌ科動物
ただし z2 は g1 と同じだから、「gerzda」の PS の試案として以下のものが考えられる。
3.3)   z1 は居住者 z2 (g2 種)の巣/家/ねぐら/アジト
これは以下のようにも書ける。
3.4)   z1 は犬 g1 (g2 種)の巣/家/ねぐら/アジト
もっとわかりやすく書くなら、以下のようになる。
3.5)   z1 は居住者/犬 z2=g1 (g2 種)の巣/家/ねぐら/アジト

例3.5は結論のように見えるが、実はまだやることがある。 残った場所のどれかを消去するべきかどうか、また、ルジヴォの場所の順番をどうするか、ということを決めなくてはいけない。 これらのことについては、この先、本章で述べる。 その議論に必要な用語は、これまでの記述で出揃った。

4. 場所の選択

ルジヴォの場所は、普通、その構成要素となるギスムの場所の集合から引き出される。 不要な場所を消去し、ルジヴォに適切な意味を与えるために十分な場所だけが残るようにする。 一般に、場所を1つルジヴォに含めると、そのルジヴォで表される概念がより広い意味になり、場所を1つ消去すると、概念がより具体的になる。 なぜなら、場所を消去するということは、その場所に入るべき標準的な値や範囲が想定されていることになるからだ。

ルジヴォの PS をゼロから考案し、あたかもギスムのように、項がルジヴォの表す概念に与えるものを考え出すことは可能だが、そうしないで、この章に詳説される手順のほうを支持する理由が2つある。

第1に、聞き手や読み手はルジヴォの伝えようとしている概念について何も予備知識が無いので、 PS が実際どうなっているか考えて理解するのは非常に難しい。 考える代わりに、ルジヴォに出会うたびに、「se jbopli」や「te klagau」が何であるか知るために、いちいち辞書をひかないといけない。 そうなると、ロジバン話者は1300余りのギスムの PS を覚えれば済んだはずのものが、ほとんど規則性の無い無数のルジヴォの PS を覚えさせられることになってしまう。 本章に書かれた指針は、ルジヴォの PS の構成方法に規則性を与え、どこでも通用する様式とするためにある。

第2の理由は第1の理由に関連している。 ルジヴォのヴェルジヴォが適切に選ばれずに、ルジヴォの場所がゼロから作られていると、それらの場所の中には、ルジヴォのヴェルジヴォを構成するギスムの場所と対応しないものがあるかもしれない。 このように、ルジヴォの場所の集合が、ヴェルジヴォを構成するギスムの場所の集合の部分集合となっていない場合、聞き手や読み手が、特定の場所の意味を理解したり、そのルジヴォ内でその場所が果たす役割を理解したりするのは、非常に難しくなる。 この話題は第14節で更に議論される。

# 第2節のタンルとテルタウの関係に似ている。 ルジヴォの場所に入るものの集合が、ヴェルジヴォであるタンルを構成するギスム(セルタウ、テルタウ)の場所に入るものの集合の部分集合となるようにしたい:
#

しかし、ルジヴォの PS について、作ってみた後にあれこれ言うことによって、ヴェルジヴォから不要な場所を消していく過程をうまく制御することができるようになる。 ロジバン話者に、最終的に得たい PS についての考えがあれば、その考えを表すために、ルジヴォの元になる適切なヴェルジヴォを選ぶことができるはずだ。 それなら、その考えを表すために適切な場所と、そうでない場所とを、決めることができるはずだ。

5. 対称ルジヴォと非対称ルジヴォ

ルジヴォ作成の(おそらく最も)よくある形式では、「対称ルジヴォ (symmetrical lujvo)」と呼ばれるものを作る。 対称ルジヴォは、セルタウの x1 がテルタウの x1 に等しいというタンルの解釈に基づいている。 つまり、タンルの各構成要素が、同じ対象を描写している。

#
例として、「balsoi」というルジヴォを考えよう。 これによって「偉大かつ兵士」という意味を表したい。 つまり「偉大な兵士」という解釈を「banli sonci」というヴェルジヴォに与えようとしている。 元になるギスムの PS は以下のようになっている。

5.1)   banli: b1 は b2(性質)に関して b3(基準)で偉大/壮大/尊大
       sonci: s1 は s2(隊)の戦士/兵士/闘士
この場合、「sonci」の s1 は「banli」の b1 と等しいから、余分である。 s1 と b1 は同じものを指しているのだから、「balsoi」の PS はこれらのどちらか1つだけを含んでいれば良い。 すると「balsoi」の PS は以下のようになる。
5.2)  b1=s1 は s2 (隊)の b2(性質)に関して b3(基準)で偉大な戦士/兵士/闘士
対称ヴェルジヴォの中には、 x1 だけでなく他の場所も等しいものがある。 「tinju'i」(注意深く聴く)というルジヴォを考えよう。 ギスム「tirna」と「jundi」の PS は以下のようになっている。
5.3)   tirna: t1 は t2(対象音声)を t3(環境音声)にたいして聞く
       jundi: j1はj2(物/者/事)にたいして懇ろ/注意深い/配慮がある/気を使っている
これらから作られるルジヴォの PS は以下のようになる。
5.4)  j1=t1 は j2=t2 を t3(環境音声)にたいして注意深く聴く
なぜなら、注意深くする者 j1 が聞く者 t1 に等しいだけでなく、注意の対象 j2 が聞かれるもの t2 に等しいからだ。

セルタウの x1 (先ほどの例では「gerku」)がテルタウの x1 以外の場所に等しいという性質があるルジヴォは、多くはないが実在する。 そういうルジヴォを「非対称」であると言う。 (第5章で使われた「非対称タンル」「対称タンル」という用語と類似する表現にしてある。)

#

原則として、非対称ルジヴォは対称ルジヴォで表現することも可能だ。 例えば第3節で議論した「gerzda」 について、場所 g1 が場所 z2 に等しいことがわかったが、場所の番号が一致するように「zdani」を「se zdani」(あるいはルジヴォで表すなら「selzda」)に変えても良かった。 「selzda」の PS は以下のようになっている。

5.5)  s1 は巣/家/ねぐら/アジト s2 がある
したがって、3つの要素から構成されるルジヴォ「gerselzda」の PS は次のようになるだろう。
5.6)  s1=g1 は巣/家/ねぐら/アジト s2 がある g2 種の犬
「gerselzda」は有効なルジヴォではあるけれども、このルジヴォの場所1は犬であり、犬小屋ではないから、「犬小屋」の訳にはなっていない。 それに、必要以上に複雑になっている。 「gerzda」のほうが「gerselzda」より簡単である。

読み手や聞き手の観点から言えば、新しく出てきたルジヴォが対称か非対称か、また非対称ならどういう形で非対称なのか、必ずしも明らかではない。 ルジヴォの PS が辞書などに載っていない場合、タンルの解釈と同様、もっともらしさが解釈の基準となる。

例えば「karcykla」というルジヴォは「karce klama」「車-行」から作られている。 「karce」の PS は以下のようになっている。

5.7)  karce: ka1 は ka2(客/荷)・ka3(原動力)の車

「karcykla」の非対称解釈が「gerzda」の PS にそっくりであるとすると、終点 kl2 と車 ka1 が等しいことになるから、その場合、PS は以下のようになる。

5.8)  kl1 は車 kl2=ka1(終点)(ka2(客/荷)・ka3(原動力)の)へ kl3(起点)から
            kl4(経路)をkl5(方法)で行く
しかし一般には車に行くより車で行くと言いたいことが多いから、もっとありそうな PS では、 ka1 と kl5 を等しいものとして扱うだろう。 そうすると、例5.8の代わりに以下のような PS になる。
5.9)  kl1 は kl2(終点)へ kl3(起点)から kl4(経路)を
             車 kl5=ka1 (方法)(ka2(客/荷)・ka3(原動力)の)で行く

6. 依存する場所 (Dependent places)

ルジヴォから完全に消し去るべき場所があるとすれば、どの場所を消せば良いかを理解するためには、「依存する場所 (Dependent places)」という概念を理解する必要がある。 ブリヴラのある場所に入るものが他の場所に入るものから予想できるとき、その場所は他の場所に「依存する」と言う。 例えば「gerku」の g2 は g1 に依存する。 なぜなら、 g1 に入るもの(たとえばよく知られた犬であるスポットとしておこう)がわかっていれば、 g2 に入るものもわかっている(「セントバーナード」としておこう)。 言い換えれば、 g1 に入るものが特定されれば、それによって g2 に入るものが決まる。 逆に言えば、どの犬でも一つの品種だけに属しているが、それぞれの品種に属する犬はたくさんいるから、 g1 は g2 に依存しない。 ある犬がセントバーナード種であることだけを知っていても、そのことだけから、どの犬を指しているかを特定することはできない。

一方「zdani」の PS では、各場所の間に依存関係はない。 ひとりの居住者が複数の家に住むことは可能だから、家の居住者を特定していても、その家を特定することはできない。 同じように、1軒の家に複数の居住者が住むことは可能だから、家を特定していても、その居住者を特定することはできない。

ルジヴォから場所を消去する規則は、セルタウ由来の依存する場所を消去することである。 したがって、「gerzda」の中の依存する場所 g2 は例3.5で与えられた PS の試案から取り除かれ、以下のような PS が残る。

6.1)   z1 は犬 z2=g1 が住む巣/家/ねぐら/アジト
非公式な言い方をすれば、こうなる理由は、3番目の場所 g2 が犬小屋についての叙述ではなく、そこに住む犬についての叙述だからだ。 セルタウの場所に関してはこういうことがよくある。 以下の文
6.2)   la mon. rePOS. gerzda la spat.
       モンレポはスポットの犬小屋だ。 
は実際には以下のことを意味する。
6.3)   la mon. rePOS. zdani la spat. noi gerku
       モンレポはスポットの家であり、スポットは犬だ。 
なぜならそれが「gerzda」というルジヴォに与えた解釈だからだ。 しかしそれは以下のことをも意味する。
6.4)   la mon. rePOS. zdani la spat noi ke'a gerku zo'e
       モンレポはスポットの家であり、スポットは何らかの品種の犬だ。 
品種を明言するなら以下のようになる。
6.5)   la mon. rePOS. zdani la spat. noi ke'a gerku la sankt. berNARD.
       モンレポはスポットの家であり、スポットはセントバーナード種の犬だ。 
この場合、例3.5の充分過ぎる PS を使って以下のように言うのはほとんど意味がない。
6.6)   la mon. rePOS. gerzda la spat. noi ke'a gerku la sankt. berNARD. ku'o
             la sankt. berNARD.
       モンレポはセントバーナード種のスポットの家であり、スポットはセントバーナード種の犬である。 
犬の品種が主セルブリと関係節の両方で述べられている。 それに、犬の品種は犬についての補足情報であって、犬小屋についての情報ではないのだから、直観的には妙な場所で反復されている。

さらに例として「甲虫」を表すルジヴォ「cakcinki」について考えよう。 このルジヴォの元になるタンルは「calku cinki」、つまり「殻-虫」だ。 このタンルの構成要素となっているギスムの PS は以下のようになっている。

6.7)   calku: ca1 はca2を覆う、ca3(成分)の殻
       cinki: ci1 は ci2(種類)の昆虫綱
この例では、あるギスムの場所と別のギスムの場所の交差依存が説明できる。 ci1 (昆虫)に当てはまるものには、必ず ca3 に当てはまるキチン質の殻があるので、ca3 は ci1 に依存する。 さらに、各昆虫は殻を重ね着することができないので、ca1 は ci1 にも依存する。 そして殻の中身 ca2 は昆虫 ci1 に等しいので、ルジヴォ「cakcinki」の PS は以下のようになる。
# 現実には ca2=ci1 ではなく、ca1+ca2=ci1 となっている。 そうすると「cakcinki」は、第13節で議論する「依存関係がテルタウの1つの場所とセルタウの事象全体との間に成り立つ」というルジヴォではないか?
# イリオモテボタルのように、メスが幼形成熟し、一生キチン質の殻を持たない昆虫もある。
# セルタウの場所が全てテルタウの場所に依存するルジヴォの例として適切なものは?
6.8)   ci1=ca2 は ci2(種類)の甲虫
「calku」の場所は全て「cinki」の場所に依存するものとして消去され、1つも残らなかった。

(昆虫の成虫には皆、何らかのキチン質の殻があるので、この説明からは、「cakcinki」が「甲虫」(コウチュウ目 Coleoptera)の意味になる理由がわからない。 まったく答えになっていない答えとしては、殻は甲虫においてとりわけ顕著で非常に目立つ性質であるから、ということだ。)

ci2 が ci1 に依存することについてはどうだろうか? 2つ以上の種に属する甲虫などいないのだから、「cakcinki」の ci2 は、先ほど「gerzda」の g2 を消去したのと同じ理由で消去できそうなものだ。 しかし、依存する場所がヴェルジヴォのテルタウ由来の場合は、ルジヴォから消去されないという規則がある。 この規則は、ルジヴォの PS がテルタウの PS からあまりかけ離れないようにするために、遵守しなければならない。 テルタウの中で必要な場所は、ルジヴォの中でも必要な場所として扱われる。

一般に、テルタウ由来の場所を消去したくなったら、ヴェルジヴォの選び方が良くないしるしだ。 異なる PS は異なる概念を内包するから、ルジヴォ作成者は自分の選んだ PS に間違った概念を押し込もうとしているのだろう。 このことは例えば、テルタウ「klama」を「litru」や「cliva」の概念に押し込もうとするとき、明らかになる。 これらのギスムは項の個数が異なるから、ルジヴォの中に「klama」の場所を押し込んでも、結果として作り替えられた PS が「litru」や「cliva」の PS になっていたら、まったく無意味だ。

依存関係は、テルタウの1つの場所とセルタウの事象全体との間に成り立つ場合もある。 これについて詳しくは第13節で議論する。

残念ながら、セルタウの中の依存する場所は、どれでも安全に消去できるわけではない。 場合によっては、文脈中のルジヴォの意味を解釈する必要がある。 犬小屋については、そこに住む犬がどの品種であるかはどうでも良いが、校舎の建築については、その中にどういう種類の学校が入るかによって大きな違いが生じうる。 音楽学校なら録音室や練習室が必要だし、小学校なら遊び場が必要、などといったことだ。 したがって、「kuldi'u」(「ckule dinju」由来で「校舎」を意味する)の PS は以下のようになる。

6.9)   d1 は学校 c1 (c3(科目)を c4(聴衆)に教える)が入った建物
c3 と c4 が明らかに c1 に依存しているが、これらは消去されない。 それ以外の「ckule」の場所のうち、所 c2 と経営者 c5 は「校舎」という概念に必要なさそうだし、 c1 に依存してもいるから、消去される。 ここでも、 PS の考察が場合によるということが実証された。

7. ルジヴォの場所の順序

これまで、ルジヴォの PS に入れる場所を選択することに専念してきた。 しかしこれはやるべきことの半分でしかない。 ロジバンでセルブリを使うとき、スムティの正しい順序を覚えておくことが重要だ。 ルジヴォではスムティの順序に注意することが決定的に必要になる。 選ばれた場所は、読み手がそのルジヴォを見たことがなくても、どの場所が何にあたるかわかるような仕方で、順序付けられていなければならない。

理解可能なルジヴォを作るためには、 PS の中の場所の順序を何らかの慣習に従って決めなければならない。 そうしないと、ルジヴォの意味はまさしく曖昧になってしまうかもしれない。 例えば「祈」を意味する「jdaselsku」というルジヴォを考えよう。

7.1)   di'e jdaselsku la dong.
       次の発話はドンに関わる祈りだ。 
この文の中で、わかるようにしなければならないのは、ドンが祈る者なのか:
7.2)   次の発話はドンによる祈りだ。 
それともドンが祈りの対象なのか:
7.3)   次の発話はドンに対する祈りだ。 
という違いである。

こういう問題は各ルジヴォについて、場合によって異なる方法で解決することは可能だが(第14節 では実際にそうする必要がある場合について議論する)、場合によって異なる解決方法を何の変哲もないルジヴォに使ってしまうと、ルジヴォの PS を学習するために要する手間が計りしれなくなる。 学習者には、学ぶ対象について納得のいくつじつまのあった型が必要だ。 そういう型は、ギスムの PS には見受けられる(第16節を参照)。 ルジヴォの PS にはなおさらそういう型が必要だ。 ルジヴォの作成というものは、結局のところ職人技なので、場合によって異なる考察というのは依然として必要だが、できる限り規則性を優先させる方が、理解の助けになる。

ルジヴォの PS を並べる規則を2つ挙げよう。 対称ルジヴォ用の規則と非対称ルジヴォ用の規則だ。 「balsoi」(第5節で出てきた)のような対称ルジヴォでは、テルタウの場所が先に置かれ、その後ろに、消去過程を経て残ったセルタウの場所が置かれる。 「balsoi」で残った「banli」の場所は b2 と b3 なので、 PS は以下のようになる。

7.4)   b1=s1 は s2 (隊)の b2(性質)に関して b3(基準)で偉大な戦士/兵士/闘士
これはまさに例5.1に出てきた PS だ。 今まで明言してこなかったが、実際、これまで見てきた PS は、本節で述べる慣習に則った正しい順序になっている。

この規則が採用された動機は、ルジヴォのブリディ構成

7.5)   b1 balsoi s2 b2 b3
       b1 は s2 (隊)の b2(性質)に関して b3(基準)で偉大な戦士/兵士/闘士
と、それに多かれ少なかれ同等なブリディ構成
7.6)   b1 sonci s2 gi'e banli b2 b3
       b1 は s2 (隊)の戦士/兵士/闘士で、 b2(性質)に関して b3(基準)で偉大
との類似である。 (「gi'e」は2つのブリディを接続する論理積で、第14章で説明する。)

一方、「gerzda」のような非対称ルジヴォは、これと異なる規則に従う。 セルタウの場所は PS の最後に置かれるのではなく、セルタウの x1 と一致するテルタウの場所の直後に置かれる。 「獣医」を意味する「dalmikce」というルジヴォについて考えよう。 これのヴェルジヴォは「danlu mikce」、「動物-医」である。 これらのギスムの PS は以下のようになっている。

7.7)   danlu: d1 は d2(種類)の動物
       mikce: m1 は m2(者)を m3(病気/怪我)について m4(治療手段)で応接する医者/看護士
そしてルジヴォの PS は以下のようになる。
7.8)   m1 は動物 m2=d1 (種類 d2)を m3(病気/怪我)について m4(治療手段)で応接する医者/看護士
2つのギスムに共有されている場所は動物である患者 m2=d1 であり、セルタウの残りの場所 d2 は共有されている場所の直後に置かれ、その後ろにテルタウの残りの2つの場所が来ている。

8. 3つ以上の部分からなるルジヴォ

これまで概説してきた理論は、2つの部分からなるルジヴォについての説明だった。 しかし3つ以上の部分から作られるルジヴォもよくある。 例えば「bavlamdei」、「翌日」というルジヴォだ。 これは「未来」「隣接」「日」を表すラフシから成る。 こういうルジヴォにこれまでの説明を当てはめるにはどうすれば良いか?

こういうルジヴォを扱う最良の方法は、依然として2つの部分からなるタンルに基づいているものと見なすことだ。 これまでと違うのは、セルタウとテルタウのどちらか一方、または両方が、それ自体ルジヴォであるということだ。 「bavlamdei」が「bavla'i」(次)と「djedi」(日)という2つの部分から成ると考えれば、意味を持たせるのは簡単である。 部分となるルジヴォの PS がわかっているか、考え出すことができれば、新しいルジヴォの PS をいつもの方法で構成することができる。

この例では、「bavla'i」の PS は対称ルジヴォとして以下のように与えられる。

8.1)   b1=l1 は b2=l2 の次
これを「djedi」と合成する。 「djedi」の PS は以下のようになっている。
8.2)   d1 は d2(数、デフォルトで1)・d3(基準)の満日
対称ルジヴォでは、テルタウの場所の列を全部、セルタウの場所の前に置くのが普通であるが、「bavlamdei」の定義においては、日の基準 d3 というのは、「次が翌日となる日」という概念に比べたら些細な概念である。 こういうことがあるから、ルジヴォの場所の選択と配列のために示されている方針は、厳格に守るべき法律ではないのだ。 この例では方針に背いて、ルジヴォの場所を重要度に従って並べることにする。 結果として得られる PS は以下のようになる。
8.3)   d1=b1=l1 は b2=l2 の、 d2 (デフォルトで1)日間の、基準 d3 に従った翌日
# jbovlaste では bavlamdei の PS から d2 が消去され、3つの場所だけが残っている(2012年1月17日現在)。

多くの部分から成るルジヴォについて、別の例を見てみよう。 「cladakyxa'i」は「長剣」という意味で、中世の武器の一種だ。 元になるギスムの PS は以下のようになっている。

8.4)   clani: c1 は c2(次元/方向)・c3(照合枠)において長い
       dakfu: d1 は d2(用途)・d3(素材)のナイフ/包丁/刀/剣
       xarci: xa1 は xa2(対象)・xa3(使用者)の武器/武具/兵器
「cladakyxa'i」は「cladakfu xarci」に基づく対称ルジヴォで、「cladakfu」自体も対称ルジヴォだから、必要な分析を一度に済ませることができる。 単純に、 c1 (長いもの)、d1 (ナイフ)、xa1 (武器)は同一のものを指す。 同様に、剣は敵を切るものだから、 d2 (切られるもの)と xa2 (武器の対象)は同じものだ。 最後に、 c2 (長さの方向)は常に長剣の刃の方向だから、これは c1=d1=xa1 に依存する。 残ったギスムの場所を、順々に後ろにつなげていけば、このルジヴォの PS は以下のようになる。
8.5)   xa1=d1=c1 は xa2=d2(対象)・xa3(使用者)の
            d3 (素材)の c3 (長さの照合枠)の長剣
この最後の場所 c3 は重要ではなさそうに見えるかもしれないが、法律上「ナイフ」と「剣」を区別するのは刃渡りである(法律上の境界となる長さは司法の管轄によって異なる)。 「cladakyxa'i」の 第5の場所 c3 に入るものが明言されることは少ないかもしれないが、ときには役に立つ。 ただ、この場所が重要になることはめったにないから、最後に置く方が良い。

9. SE 類のラフシをセルタウから省く

セルマホ SE などのシマヴォから派生するラフシを省いてルジヴォを作ることはよくある。 そうすると、よく出てくる便利なルジヴォを短くすることができる。 聞きなれないルジヴォは聞き手に負担を与えるので、必ずしも「単語が短ければ、より易しい」ということにはならない。 とくにルジヴォがめったにない非日常的な概念を指す場合にはなおさらだ。

例えば「ti'ifla」というルジヴォを考えよう。 これは「stidi flalu」というヴェルジヴォから作られ、「法案」という意味だ。 これらのギスムの PS は、以下のようになっている。

9.1)   stidi: st1 は st2(概念/行動)を st3(者)に示唆/推奨/提案する
       flalu: f1 は f2(事)を f3(共同体)のために f4(条件)で 
            f5(者)が制定した法律/条例
このルジヴォはこれまでに出てきた型に嵌らず、セルタウの2番目の場所 st2 がテルタウの f1 と一致している。 しかし、「ti'ifla」が「selti'ifla」の略だと考えれば、セルタウとテルタウの1番目の場所が揃うことになる。 「selti'i」の PS は以下のようになっている。
9.2)   selti'i: se1(概念/行動)は se2 によって se3(者)に示唆/推奨/提案される
ここで se1(提案されるもの)が f1(法律)に等しいことがわかるので、普通の対称ルジヴォが得られる。 最終的な PS は以下のようになる。
9.3)   f1=se1 は f2(事)を f3(共同体)のために f4(条件)で
            提案者 se2 によって f5=se3 (者)に提案される法案
この場所の記号を付け替えると以下のようになる。
9.4)   f1=st1 は f2(事)を f3(共同体)のために f4(条件)で
            提案者 st2 によって f5=st3 (者)に提案される法案
最後の場所 st3 には、何らかの立法機関が入るだろう。

「ti'ifla」のような省略ルジヴォは、「selti'ifla」のような明示的な表現よりも短いというだけでなく、ルジヴォ作者にとって、より直観的だ。 省略ルジヴォについては、ルジヴォ作者はセルタウとテルタウの正確な関係をじっくり腰を据えて考えたりしなくて良い。 ただ2個のラフシを組み合わせてさらっと言ってしまえば良い。 しかし、ルジヴォの PS を考える段階になったら、セルタウとテルタウの正確な関係を特定しないといけない。 そしてその場合、こういった省略ルジヴォは、ルジヴォの PS の順序を考える際の落とし穴になる。 なぜなら、セルタウとテルタウの最も明らかな関係が隠れてしまっているからだ。 ルジヴォ作成の指針ができるだけ広範囲に応用できるようにするために、そして、ルジヴォ内のセルタウとテルタウの関係を分析することを推奨するために、「ti'ifla」のようなルジヴォには、適切な SE がセルタウに付けられていた場合の PS が与えられる。

これらのルジヴォについて注意すべきことがある。 解釈する際に SE を補って良いのは、 SE を入れないと奇妙な解釈になったり、ルジヴォとして必要とは思えないものになったりする場合に限る。 いつでもそうなるわけではないので、ロジバン話者は PS が曖昧になる恐れがないかどうか気をつけていなければならない。

10. SE 類のラフシをテルタウから省く

SE 類のラフシをテルタウから省くのは、もっと困難が多い。 なぜなら、ルジヴォは、その元になったヴェルジヴォに従って、テルタウが表すもの全部のうちの、ある種のものを表すからだ。 例えば「posydji」はある種の「djica」を表し、「gerzda」はある種の「zdani」を表す。 確かなことは、「gerzda」が「se zdani」を表してはいないことだ。 「gerzda」は「犬」という居住者を指すのに使われる単語ではない。

「青い目」という表現は、どう訳したら良いだろうか。 試案として「blakanla」(「blanu kanla」「青-目」)と訳してみよう。 しかし直ちに問題にぶち当たる。

10.1)  la djak. cu blakanla
       ジャックは青い目だ。 
とは言えないのだ。 ジャックは目「kanla」ではなく、目の持ち主「se kanla」なのだから。 せいぜい
10.2)  la djak. cu se blakanla
       ジャックは青い目の持ち主だ。 

と言うことはできる。

# blakanla la djak.
# とも言える。 あるいは jai を使って
# la djak. jai blakanla
# とすれば、日本語の「ジャックは青い目だ」と似た表現になる。
しかし「blakanla」の PS を見ると、これは対称ルジヴォであって、以下のような PS になっている。

10.3)  bl1=k1 は bl2=k2 の青い目
結局のところ、私たちが一番関心を持って話すのは2番目の場所についてであって、1番目の場所についてではない(目について話すより、人について話すことの方がずっと多い)ので、ほとんど常に「se」が必要になる。

ここでは実は、日本語をテルタウに訳すときに間違えているのだ。 「-目」といっても、「目そのもの」を表したかったのではなく、「目を備える者」、つまり「selkanla」を表したかった。

テルタウが間違いだった(つまり実際には必要だった「se」を省いてしまった)から、できたルジヴォを PS の指針に合わせて調整しようとしても、丸い穴に四角い杭を打ち込もうとするようなものだった。 このようなルジヴォは誤解を招きやすいから、 SE ラフシをテルタウから省いたルジヴォは避け、もっと明示的なものを選択するべきだ。 今の例では、「blaselkanla」ということになる。

# ここでの議論は、英語の blue-eyed という形容詞をロジバン化するために、その構造と似たルジヴォを作るという話である。 ロジバンで思考するなら、 x1 を省く、 jai を使うといった方法で、意図した意味を表せるので、このようにルジヴォを複雑化する必要は無かったかもしれない。

11. KE や KEhE 類のラフシをルジヴォから省く

ルジヴォ作成者は普通、できるだけ短いルジヴォにしたいと考えている。 そのために、瑣末だと見なされたシマヴォを省く。 そうして最初に捨てられるシマヴォは大抵、タンルを組み立ててグループ化するのに使われる「ke」と「ke'e」だ。 これは大抵無しで済ませられる。 「ke」や「ke'e」が足りないテルタウを解釈しても、これらのシマヴォを入れた解釈に比べて遜色ないし、「ke」や「ke'e」があるかどうかの区別は、普通は大して重要ではないからだ。

# 原文は「We can usually get away with this, because the interpretation of the tertau with “ke” and “ke'e” missing is less plausible than that with the cmavo inserted, or because the distinction isn’t really important.」となっているが、意味上、合理的ではないので、 less plausible の前に not を補って訳した。

例えば「牛肉の切り身」を意味する「bakrecpa'o」のヴェルジヴォは以下のようになっている。

11.1)  [ke] bakni rectu [ke'e] panlo
       牛肉の切り身
ロジバンでは先に来る語から順にグループ化されるので、この「ke」や「ke'e」を省略しても同じ意味になる。 しかし、このヴェルジヴォを以下のヴェルジヴォと比べてみても、大した違いは無さそうだ。
11.2)  bakni ke rectu panlo [ke'e]
       牛の肉切り身

一方、「しのびこむ」を意味するルジヴォ「zernerkla」の元になるヴェルジヴォは、ほとんど確実に以下のものであるはずだ。

11.3)  zekri ke nenri klama [ke'e]
       こっそりと入る
なぜなら、以下の案ではあまり意味をなさないからだ。
11.4)  [ke] zekri nenri [ke'e] klama
       犯罪的内部、行く
(犯罪の中に行く? 中に居ることが犯罪的である所へ行く? いずれにしても例11.3とほとんど同じ解釈になりそうだ。 )

しかしながら、 KE 類や KEhE 類のラフシを消して作ったルジヴォが、消さないで作ったルジヴォと同等に役立つルジヴォとなる場合もある。 例えば「海の、殻のある無脊椎動物」を意味する「xaskemcakcurnu」というルジヴォを考えよう。

# 「殻のある無脊椎動物」の原文は shellfish だが、これは生物分類学上の分類ではない。 水棲の貝や節足動物の総称であり、日本語でこれに相当する単語は無い。
# ギスム finpe は、 jbovlaste によると、水棲の脊椎動物の範囲内で pe'a 無しの比喩が許されている(2012年2月2日現在)。 従って、無脊椎動物は finpe ではない。脊椎動物であれば、いわゆる魚はもちろん、両生類のサンショウウオ、爬虫類のウミヘビ、哺乳類のクジラなども finpe と言える。カバ、ラッコ、ウミガメ、ムツゴロウ、カモノハシ、カエルなど、一時的に水から出るものを finpe とするかどうかは、話し手の認識次第である。 finpe の定義をいわゆる魚類と一致させるには、「四肢動物上綱以外の水棲の脊椎動物」とするのが妥当だろう。
このヴェルジヴォは以下のようになる。

11.5)  xamsi ke calku curnu
       海の、殻のある無脊椎動物
ところが「xasycakcurnu」のヴェルジヴォは以下のようになる。
11.6)  [ke] xamsi calku [ke'e] curnu
       「海の殻」的な無脊椎動物
これは、貝の殻に寄生する無脊椎動物を指すこともありうる。

こういう解釈の間違いは、おそらく se のラフシ「sel-」、 na'e のラフシ「nal-」、 to'e のラフシ「tol-」で始まるルジヴォのほうが、起こりやすいだろう。 これらのシマヴォは普通、直後のブリヴラか「ke ... ke'e」で囲まれたグループだけに係るから、これらから派生したラフシが係る範囲は、できるだけ狭くなるように想定されるはずだ。 だから、ルジヴォ全体を「se」「na'e」「to'e」で修飾したい場合は、これらのシマヴォをルジヴォに組み込まないで2語のままにしておく方が良い。 あるいは、ルジヴォに SE や NAhE のラフシを組み込むなら、「ke」のラフシも一緒に入れると良い。

「se klama」を「selkla」にするのは構わないし、「selkla」の PS は「se klama」の PS と一致する。 しかし、これに関連して、「歩行」を意味する「dzukla」を考えてみよう。 これは対称ルジヴォで、そのヴェルジヴォは「cadzu klama」である。

11.7)  cadzu: c1 は c2(表面)を c3(肢)で歩く
       klama: k1 は k2(終点)に k3(起点)から k4(経路)を k5(方法)で行く/来る
       dzukla: c1=k1 は k2(終点)に k3(起点)から k4(経路)を k5=c3(方法・肢)で
             c2(表面)を歩行する
k1 と k2 の場所は「se dzukla」で入れ替えられるが、「se dzukla」を直接「seldzukla」にすることはできない。 「seldzukla」のヴェルジヴォは「selcadzu klama」となるので、「歩く表面に行く」のような意味だと考えるのが妥当である。 その代わり、「ke」のラフシを入れて「selkemdzukla」とすれば、「se dzukla」のルジヴォとして正しい意味になる。 同様に、「na'e barda bloti」から作られるルジヴォ「nalbrablo」は「大きくない船」という意味だが、「na'e brablo」は「{大きい船}ではないもの」という意味になる。

SE 類で修飾しようとしているルジヴォに、すでに SE 類のラフシで始まるセルタウがある場合、近道をすることができる。 例えば「gekmau」は「より嬉しい」という意味で、「selgekmau」は「より喜ばしい」「se gleki がより多い」という意味だ。 もし、あるものが他の何かより喜ばしくないなら、それは「se selgekmau」と表現できる。

しかし、これをルジヴォにして「selselgekmau」と言うこともできる。 2つの「se」シマヴォが並んでいると打ち消しあう(「se se gleki」はただの「gleki」と同じことだ)ので、「selsel」はルジヴォの中に入れておく意味がない。 別の解釈として、「selsel-」は「selkemsel-」の略だと考えることができ、この解釈なら「se selgekmau」の意味と一致する。 「terter-」「velvel-」「xelxel-」というラフシについても同様の考え方ができる。

SE 類の他の組み合わせとして「selter-」などがある。 これは「se te」という意味だと考えられるが、これはほとんど「se ke te」という意味だと断定して良い。 場所を「se te」のような形で並べ替える必要がないからだ(第9章を参照)。

12. 抽象ルジヴォ

NU 類のシマヴォは、とくに単純で決まった様式のルジヴォを作る際に利用できる。 いつもの例「klama」について考えよう。

12.1)  k1 は k2(終点)に k3(起点)から k4(経路)を k5(方法)で行く/来る
「nu klama [kei]」というセルブリには、「行くという事象」という1個の場所しかないが、「nu」と「kei」の間には、暗に5個の場所全部が入っている。 「nu」と「kei」の間のブリディは、全部の場所を使っても、どんなスムティがテルブリとなっていても良いからだ。 1個のルジヴォの中に、そういった節内の場所を入れる余地はないから、「nunkla」(「nun-」は「nu」のラフシ)というルジヴォには、以下のような6個の場所が必要になる。
12.2)  nu1 は k1 が k2(終点)に k3(起点)から k4(経路)を k5(方法)で行く/来るという事象
「nunkla」の x1 は「nu」の唯一の場所であり、残りの5個の場所は、2番目から6番目の場所に収まっている。 この節で扱う「nu」やその他の抽象詞についての情報は、全部第11章にある。

抽象詞のうち、 x2 があるものについては、標準的な慣習として、この抽象詞の x2 を最後に置く。 その例として、「ni klama」から作られるルジヴォ「nilkla」の PS は以下のようになる。

12.3)  ni1 は k1 が k2(終点)に k3(起点)から k4(経路)を
            k5(方法)で行く/来るということを ni2(尺度)で計った量

抽象詞のラフシがもっと複雑なルジヴォで使われることもよくある。 例えば「nunsoidji」というルジヴォだ。 そのヴェルジヴォは以下のようになっている。

12.4)  nu sonci kei djica
       兵士であることを欲する
これの PS は以下のようになる。
12.5)  d1 は「s1 が s2(隊)の戦士/兵士/闘士である」ことを d3(目的)のために欲する
場所 d2 はセルタウの場所全部と置き換えられて消えた。 例12.5に見られるように、場所の順番は置き換えられる前の順番に従っている。 つまり、セルタウの場所は、テルタウの中の、事象が入る場所 d2 だったところに、まとめて入っている。

「nunsoidji」というルジヴォは普通の非対称ルジヴォ「soidji」(兵士-欲)とはかなり違う。 「soidji」の PS は以下のようになっている。

12.6)  d1 は「 s2(隊)の戦士/兵士/闘士」を d3(目的)のために欲する
「nunsoidji」である者は、これから軍隊に入ろうとしている者かもしれないが、「soidji」である者は、軍隊の職員であるかもしれない。

抽象ルジヴォの使い方の一つとして、タンルの中の「kei」を明示する必要をなくすことが挙げられる。 「nunkalri gasnu」は「nu kalri kei gasnu」とほとんど同じ意味だが、短くなっている。

# 日本語の動詞を名詞化した表現は「nun-」で始まるルジヴォで表せることが多い。 また、形容詞を名詞化した表現「-み」や、名詞に「-性」を付けた表現は「kam-」(ka のラフシ)、「-さ」や「-度」は「nil-」(ni のラフシ)で表せることが多い。
例えば「kambla」なら「青み」だ。
# ほかに、「歩き」「nunydzu (nu cadzu)」、「苦悩」「nundu'u (nu dunku)」、「放射性」「kamdi'e (ka dirce)」、「民族性」「kamnai (ka natmi)」、「厚み」「kamtsu (ka rotsu)」、「弱さ」「nilble (ni ruble)」、「丁寧さ」「nilju'i (ni jundi)」、「透明度」「nilkli (ni klina)」、「魚度(魚っぽさ)」「nilfi'e (ni finpe)」など。
# ce'u のラフシは無いので、ka や ni 節内の x2 以下の場所に焦点を当てた性質をルジヴォにする場合は SE で転換する。 kamymau (ka zmadu) 卓越性/ kamselmau (ka zmadu ce'u / ka se zmadu) 劣等性。(これに関連する議論が15節にある。)

NU 類のシマヴォは、後ろのブリディ全体という長い範囲に係る性質があるが、 NU のラフシは一般に、第9節で議論した SE や NAhE のラフシと同程度の、短い範囲しか修飾しない。

# NU のラフシを長い範囲に掛けたい場合は、 KE, KEhE, BO のラフシを併用する:
# nunkemsoidji = nunsoibordji

シマヴォ「jai」にもラフシ「jax-」がある。 例えば以下の文の jai rinka をルジヴォにすることができる。

12.7)  mi jai rinka le nu do morsi
       私はあなたの死に関わっている。 
この文は第11章の例10.8に出てきたが、ルジヴォを使って以下のように表現できる。
12.8)  mi jaxri'a le nu do morsi
       私はあなたの死の一因である。 

「jai」を含むセルブリを「jax-」の付いたルジヴォにするとき、「fai」の場所はルジヴォになっても「fai」の場所のままにしておくという規則がある。 「fai」の場所はルジヴォの標準的な PS には入ってこない。 (「fai」の使い方は第9章第12節第10章第22節で説明した。 )

13. 暗黙抽象ルジヴォ (implicit-abstraction lujvo)

NU 類のラフシを省く際には、 SE 類のラフシを省くのと同様の制限があり、さらに別の制限が追加される。 一般に、 NU 類のラフシをテルタウから省いてはいけない。 もし省いたら、ルジヴォが表現している内容が、抽象ではなくて具体的なスムティに関するものになってしまうからだ。 しかし、NU 類のラフシをセルタウから省くことは、意味が曖昧になる心配が無ければ許される。

しかし、 SE の省略と NU の省略の主な違いは、 SE の省略がちょっとした簡略化に過ぎないのに対して、 NU の省略には重要性があり、「暗黙抽象ルジヴォ (implicit-abstraction lujvo)」という種類のルジヴォになる。

「食べさせる」という意味のルジヴォ「nunctikezgau」を細かく分析してみよう。 「nunctikezgau」のヴェルジヴォは「nu citka kei gasnu」だ。 これらの PS は以下のようになる。

13.1)  nu: n1 は事象
       citka: c1 は c2 を食べる
       gasnu: g1(者)は g2(事)をする

第8節に出てきた、3つの部分からなるルジヴォの分析過程に従って、まず中間的なルジヴォ「nuncti」を作る。 そのヴェルジヴォは「nu citka [kei]」だ。 第12節の規則に従って、「nuncti」の PS は以下のようになる。

13.2)  n1 は c1 が c2 を食べるという事象

これを使うと、「nunctikezgau」のヴェルジヴォを「nuncti gasnu」とすることができる。 場所 g2 (g1 がもたらす事象)は明らかに n1(食べるという事象)と同じものを意味する。 だから g2 は余分なものとして省くことができ、試案として以下の PS が得られる。

13.3)  g1(者)は n1=g2(c1 が c2 を食べるということ)をもたらす

しかし、この n1 の場所も消去して良い。 n1 はもたらされる事象を表す。 ロジバンで事象はブリディとしてセルブリとスムティによって表現される。 セルブリはすでにわかっている(セルタウである)し、スムティもすでにわかっている(ルジヴォの PS に入っている)。 だから n1 があっても、新しい情報は何も得られない。 実際、 n1=g2 は、 c1 と c2 のそれぞれに依存しているわけではないが、 c1 と c2 の組に依存している。 依存していてセルタウから引き出せるのだから、 n1=g2 は消去してよい。 結局「nunctikezgau」の PS は以下のようになる。

13.4)  g1 (者)は c1(者)に c2 を食べさせる

さらにもう一つの段階を踏むことがありうる。 すでに第5節で「balsoi」について見たように、ルジヴォの解釈は、ギスムとその場所に入るスムティの意味によって決まる。 「gasnu」をテルタウとする非対称ルジヴォは、暗黙的にしても明示的にしても、必ず事象抽象を含む。 「gasnu」の g2 が事象を取るように定義されているからだ。

従って、「nu」が「se gasnu」となるべき抽象の形だと考えるなら、「nunctikezgau」の中のラフシ「nun」と「kez」は、「gasnu をテルタウとするルジヴォのセルタウは事象である」という、すでにわかっていることを表しているに過ぎない。 これらのラフシを消して、もっと短いルジヴォ「ctigau」にしても、対称とする解釈(「する」と「食べる」を両方同じ者がするという解釈)を却下すれば、セルタウが事象を指すということが依然として推論できる。

「食べる者をする gasnu lo citka」という言い方はできない。 gasnu の x2 は事象「nu citka」でなければならない。

# 「食べる者である」ということを、物理的な現象として捉えることができるから、「食べる者」を事象と見なす観点はありうる。
また、
# 日本語の「する」には、感覚(音がする)、仮定(行くとすれば~)、価格(500円する)、経過(10分したら引き上げる)、生業(漁師をする)、決断(ラーメンにする)など、いろいろな意味があるが、
gasnu は「事象 g2 をもたらす行為をする」という意味しか持たない。

だから、「ctigau」を「nunctikezgau」と同じ PS を持つルジヴォとして使うことができる。

13.5)   g1(者)が c1(者)に c2 を食べさせる

この特別な非対称ルジヴォでは、セルタウが、テルタウの場所の一つを占める抽象詞のセルブリとなる。 このようなルジヴォを「暗黙抽象ルジヴォ」と呼ぶ。 なぜなら、表現されていない(暗黙の)抽象詞が存在することを推論できるからだ。

別の例を見てみよう。 「basti」というギスムの PS は以下のようになっている。

13.6)  b1 は b2(対象)と、b3(状況)において交替する
これを使ってルジヴォ「basygau」を作ることができ、その PS は以下のようになる。
13.7)  g1(者)は b1 を b2 と b3(状況)において交替させる 

さらに、「gasnu」を、日本語で考えると名詞や形容詞的な意味になるギスムと組み合わせても、ルジヴォを作れる。 ロジバンでは、形容詞でも名詞でも動詞でも、述語として同じ方法で扱われる。 このことは、他の言語においても似たような使役を表す接辞を使うことと、整合性がある。 例えば「litki」というギスムは「液体」という意味で、以下のような PS になっている。

13.8)  l1 は l2(成分/物質)の、l3(条件)における液体/流動体
これを使って「液化させる」という意味のルジヴォ「likygau」を作ることができる。
13.9)  g1(者)は l1 を l2(成分/物質)の、
            l3(条件)における液体/流動体にする

「likygau」は確かに「液体であることをもたらす」という意味を表しているが、「改変」という意味の「galfi」を元にした別のルジヴォの方が「液体になるようにする」という意味には適切かもしれない。 一方「fetsygau」については混乱しがちかもしれない。 これは「何かを女性化させる」(暗黙抽象の解釈)という意味にも取れるし、単に「女性である(何か)する者」(対称な解釈)という意味にも取れる。 このように、暗黙抽象ルジヴォは常に誤解されるリスクを伴う。

ロジバンのギスムには、他にも事象抽象の場所を持つものがたくさんある。 従って、これらのギスムは暗黙抽象ルジヴォのテルタウとして良い候補となる。 例えば「rinka」は以下のような PS になっているが

13.10) r1(事)は r2(事)を r3(条件)において引き起こす
これを元にしたルジヴォは「gasnu」を元に作られるルジヴォと近い関係にある。 しかし「rinka」は「gasnu」ほど一般的に利用できるわけではない。 なぜなら r1 は人ではなくて別の事象であるからだ。 「lo rinka」は原因であって、引き起こす者ではない。 従って、「likygau」に対応する「likri'a」の PS は、以下のようになっている。
# 原文では likyri'a だが y は不要(第3章第6節に従う)。
13.11) r1(事象)は l1 が 
            l2(成分/物質)の、l3(条件)における液体/流動体となる原因
このルジヴォは「太陽の熱で氷の塊が液体になった」というような文を翻訳するのに役立つだろう。

ロジバンにおいて暗黙抽象ルジヴォは、非常に冗長なブリディに簡潔で扱いやすい概念を与え、 表現力を増すための、強力な手段である。

14. 変則ルジヴォ

ロジバンで実際に使われているルジヴォの中には、以上で説明したような指針に従っていないものもある。 それらのルジヴォでは、セルタウとテルタウの中の等しい場所が標準的な位置に無いか、セルタウとテルタウが複雑な関係にあるか、あるいはその両方である。 前者の例として「祈」を意味する「jdaselsku」が挙げられる。 これについては既に第7節で取り上げた。 これのヴェルジヴォとなるギスムの PS は以下のようになっている。

14.1)  lijda: l1 は l2(信者)・l3(信条/教条/教理/慣行/ドグマ)の宗教/ミュトス
       cusku: c1(者)は c2(内容)を c3(聴衆)に c4(媒体)で表す/言う/表現する
「jdaselsku」のテルタウである「selsku」の PS は以下のようになっている。
14.2)  s1 は s2(者)が s3(聴衆)に s4(媒体)で表す内容

l2 と s2 の場所が等しいことはすぐにわかる。 信者 (l2) は祈りを表す者 (s2) と同じ者だ。 ここでは、第7節第13節で出てきたような PS の配置規則は適用されていない。 しかし、それらに勝る規則も無いので、テルタウの場所を先に置き、残りのセルタウの場所は後ろに置いて、以下のような PS が得られる。

14.3)  s1 は s2=l2 が s3(聴衆)に s4(媒体)で表す、
            宗教 l1 に関する祈り
l3(信条/教条/教理/慣行/ドグマ)の場所は l1(宗教)の場所に依存するので、消去された。

このルジヴォは「se seljdasku」と置き換えることによって、もっと整然とした形にできる。 「seljdasku」は普通の対称ルジヴォで、以下のような PS になる。

14.4)  c1=l2 は宗教的に c2(祈り)を c3(聴衆)に s4(媒体)で
            宗教 l1 に関して表す
第9節で説明した規則に従えば、さらに「selseljdasku」というルジヴォにすることは可能だ。 しかし、規則どおりにするために、わざわざ醜い「selsel-」という接頭辞を入れる必要は無い。 「jdaselsku」は、変則的であるにしても道理にかなったルジヴォだ。

しかしながら、「jdaselsku」には他にも問題がある。 その問題は「seljdasku」を使っても解決できない。 「lijda」と「cusku」という2個のギスムだけからなるヴェルジヴォは、祈りに伴う暗黙の関係を十分に表せない。 ある宗教の信者による発話が、何でも祈りであるというわけではないし、宗教の信者としての行動における発話でさえ、祈りであるとは限らない。 祈りというのは、宗教の権威の元に、あるいは宗教を媒体として、あるいは宗教の教義に従って、などの状況で発話される言葉だ。 だからこのヴェルジヴォは幾分省略形である。

結果的に、「seljdasku」と「jdaselsku」は両方とも変則ルジヴォの第2型に属している。 つまり、ヴェルジヴォが、ルジヴォに必要なもの全てを提供してはいない。

この種の変則ルジヴォの例として、第5章のタンルのリストから取り出した「lange'u」を見よう。 これは「牧羊犬」という意味のルジヴォだ。 牧羊犬というのは、明らかに「羊である犬」ではない(対称解釈は間違っている)。 また、「羊種の犬」でもない(非対称解釈も間違っている)。 「lanme」と「gerku」の場所が何一つ重なっていないのだ。 このルジヴォは「羊の群れを制御する犬」「terlanme jitro gerku」を表す。 このタンルから、省略なしで作られるルジヴォは「terlantroge'u」であり、以下のような PS になっている。

14.5)  g1=j1 は羊の群れ l3=j2(羊 l1 からなる)を
            動作 j3 に関して制御する g2 種の犬
このルジヴォの元になるギスムの PS は以下のようになっている。
14.6)  lanme: l1 は l2(種類)の l3(群れ)のヒツジ属動物
       gerku: g1 は g2(種類)のイヌ科動物
       jitro: j1 は j2 を j3(動作/事)に関して制御/指揮/引率する

このルジヴォの中で「lantro」(羊-制御者)と「gerku」(犬)は対称だが、「lantro」自体は非対称ルジヴォだ。 羊の種類 l2 は l1 に依存するので消去される。 しかし、「lange'u」というルジヴォは「terlantroge'u」より短いというだけでなく、十分に使用に耐える明解さがある。 ただしその PS は、「lange'u」が長いルジヴォ「terlantroge'u」の略語であることが分かるように、長いルジヴォと同じ PS でなけれればならない。

別の例を見よう。 「xanmi'e」は「手で注文」という意味で、ヴェルジヴォの PS は以下のようになっている。

14.7)  xance: xa1 は xa2(本体)の手
       minde: m1 は m2(者)に m3(事)が起こるよう/を行うよう命令/指令/指図する
セルタウとテルタウの関係は近く、重なる場所がある。 xa2(手の本体である者)は m1(注文者)と同一だ。 しかし「xanmi'e」を、「se xance minde」のセルタウの「sel-」が省略された対称ルジヴォと見なすと、見落とす点がある。 このルジヴォで表される実際の関係は、単なる「注文者であり、手を持つ者」ではなくて、「手を使って注文する」という関係だ。 「使って」という概念から「pilno」というギスムが思いつく。 「pilno」の PS は以下のようになっている。
14.8)  p1 は p2(道具/機械/者)を p3(目的)のために使う/用いる
これを含めた3つの部分からなるヴェルジヴォの可能性として、以下のようなものが挙げられる(どれだけ厳密にヴェルジヴォを束縛したいかによって違う)。
14.9)  [ke] xance pilno [ke'e] minde
       手の使用者的な注文者

14.10) [ke] minde xance [ke'e] pilno
       注文する手の使用者
あるいは
14.11) minde ke xance pilno [ke'e]
       注文者的な手の使用者
これらのヴェルジヴォは、それぞれ3つの異なるルジヴォ「xanplimi'e」、「mi'erxanpli」、「minkemxanpli」になる。

このことから「xanmi'e」というルジヴォが間違いだということになるだろうか? ならない。 しかしこのことは、「xanmi'e」の意味の背後に隠れた要素、ヴェルジヴォに現れないギスム「pilno」が存在することを意味する。 また、実際に意味のある、その場しのぎでない PS を導き出すためには、 ロジバン話者はおそらく、上記の「terlantroge'u」の分析と同じように、「xancypliminde」などの可能なルジヴォのうちの1つを導出しなければならないということも意味する。 さらに、省略型ルジヴォが可能になると、当然のことながら、潜在的な曖昧さが爆発的に増える。 このことは避けられない事実であり、肝に銘じておくべきだ。

15. 比較級と最上級

どんなブリヴラでも、「zmadu」「mleca」「zenba」「jdika」「traji」をテルタウとして付けることによって、性質の度合を比べる「より」「最も」といった意味を含むルジヴォを作ることができる。 そういうルジヴォを規則的に簡単に作るために、いくつか特別な指針に従うことにしよう。

まず、「zmadu」「mleca」に基づくルジヴォから始めよう。 これらの PS は以下のようになっている。

15.1)  zmadu: z1 は z2 よりも、z3(性質/数量)の点で、z4(度合)ほど卓越している
       mleca: m1 は m2 よりも、m3(性質)に関して m4(数量)ほど少ない
例えば「若い」という概念は「citno」というギスムで表せる。 これの PS は以下のようになっている。
15.2)  citno:  c1 は c2(基準)において若い

「より若い」という概念は「citmau」というルジヴォで表せる。 これは「若-より」という意味のヴェルジヴォ「citno zmadu」から作られる。

15.3)  mi citmau do lo nanca be li xa
       私はあなたより6歳ほど若い。 
「citmau」の PS は以下のようになる。
15.4)  z1=c1 は z2=c1 よりも z4(度合)ほど若い

これは、「citno mleca」から作られるルジヴォ「citme'a」を使って、以下のように言い換えられる。

15.5)  do citme'a mi lo nanca be li xa
       あなたは私より6歳ほど若くない。 
日本語では例 15.5のような表現をあまりしないが、ロジバンでは例 15.3例 15.5も、同じ方法で簡単に言い表せる。

これらのルジヴォの PS はとても簡単なので、「-mau」や「-me'a」で終わるルジヴォは、セルブリとしての「zmadu」「mleca」よりも、頻繁に使われる。 こういうルジヴォが暗黙抽象ルジヴォ以外の何かとして解釈されるようなことは、ほとんどなさそうだ。 しかしこれらのルジヴォには、比較対象に関して、別のタイプの曖昧さがある。

例えば「nelcymau」の意味は「{X は Y が好き}の度合が「{X は Z が好き}の度合に勝る」なのか、それとも「{X は Y が好き}の度合が「{Z は Y が好き}の度合に勝る」なのか、どちらだろう? 「klamau」の意味は「X は Y へ行くほうが Z へ行くより多い」なのか、「X は Z が行くよりも多く Y へ行く」なのか、「X は Y へ Z から行くほうが W から行くより多い」なのか、はたまた他の何かか?

この疑問に答えるために、こういう無駄な考察をやめて、規則性を導入する。 慣例として、比較対象は常にセルタウの x1 とする。 他の場所を比較するときは、セルタウを SE で転換すれば、必要な場所がセルタウの x1 となる。 結果として、以下のような比較ルジヴォの PS が得られる。

15.6)  nelcymau: z1 のほうが z2 より n2 を z4(度合)ほど好く
       selnelcymau: z1 のほうが z2 より n1 に z4(度合)ほど好かれる
       klamau: z1 のほうが z2 より多く k2 へ k3 から k4 を通って k5 で行く
       selklamau: z1 へのほうが z2 へよりも多く k1 が k3 から k4 を通って
            k5 で行く
       terklamau: z1からのほうが z2 からよりも多く k2 へ
            k1 が k4 を通って k5 で行く
# selklamau, terklamau の k1 が SE 類によって移動しているので、転換後の k1 の場所に注意する必要がある。 velklamau, xelklamau についても同様。
比較対象の問題について、ルジヴォを使わない場合の解決方法は第11章に書いてある。
# selnelcymau では、lo nelci は同一の人格 n1 だから、n1 が自分の z1 と z2 に対する ni nelci ce'u を主観的に比較することが可能だ。 一方、 nelcymau は、lo nelci が2つの異なる人格 z1 と z2 なので、この2人の ni ce'u nelci を lo nelci の主観によって比較することができない。 また、客観的に比較する基準もない。 つまり、真理値を決められない。 nelcymau について、lo nelci 以外の誰かの主観による比較のみ可能であるとすると、真理値を決めるには、判断基準(誰の観点か)を入れる場所が常に必要だ。 このような議論は第16節で言及される「形而上学的な必要性」に関係する。 (参考:ソロモンの審判や、大岡裁きの「子争い」などでは、 nelci の度合ではなく prami の度合を客観的に比較している。 prami (jbovlaste) は献身 (sezypevdu'a) 度という客観的に定義できる尺度を持つので、 nelci と違って11.4節の例文4.10で取り挙げたような 比較が可能になる。)

場所の配列の規則として、まず比較対象となる場所を x1 と x2 とし、その後にセルタウの残りの場所を並べる。 zmadu の z4 は、一方が他方より卓越している度合を表すが、残念ながら、ルジヴォによって異なる番号の場所へずらされてしまう。 例えば nelcymau の z4 は4番目の場所にあるが、 klamau の z4 は6番目の場所にある。 文が難しくなるようなら、 z4 のような度合を表す場所には、余分なタグ「vemau」(「zmadu」の場合)や「veme'a」(「mleca」の場合)を付けて、話し手の意図がはっきりわかるようにする。

こういう比較ルジヴォのセルタウは、必ずしも真でなくて良い。 例えば、誰かが誰かより若いからといって、この2人が若いとは限らない。 80歳の者だって90歳の者より若いのだ。 言い換えれば、80歳の者は90歳の者より「ni citno」が多い。 同様に、5歳の者は1歳の者より年をとっているが、一般的な基準から言って「年をとっている」とは見なされない。

「se zmadu」が特定しにくい比較概念もある。 そういう概念は大抵、暗黙の了解として、以前の状態との比較を意味している。 そこで z2 の場所を明示すると、問題が生じてしまう。

# z1 と z2 は同一のものだが、時が違う。 比較するには、それぞれのスムティの時点を指定する。 「mi pe ca lo cabdei cu zmadu mi pe ca lo prulamdei lo ni ce'u tsali (今日の私は昨日の私よりも強さの点で卓越している。)」

こういう場合、「zmadu」を使わないのが一番良い。 比較を使わないで、その代わり、「増える」という意味のギスム「zenba」を使うと良い。 「mleca」の代わりには「減る」という意味の「jdika」だ。 ギスム「zenba」は、「zmadu」がうまく扱えない「増加」という概念を捉えるために、ロジバンに導入された。 それに、ルジヴォやタンルに、決して使わないような無駄な場所を与える必要は無い。 「私は強くなった」というのを、以下のように比較を使って表すと、

15.7)  mi ca tsamau
       私は今、より強い。 
「今の私が以前の私より強い」という意味にはならず、「今私は他の誰か(省略された z2 の場所に入る者)より強い」という意味になってしまう。 以下のように zenba からルジヴォを作れば、「強くなる」という意味が表せる。
15.8)  mi ca tsaze'a
       私は強さが増している。 
# これだと「現在強さが増加中」という意味になる。 「以前より強くなった」という意味にする場合は
# mi ca co'i tsaze'a
# の方が的確だろう。 同じ意味をルジヴォを使わないで表すと
# mi ca co'i zenba lo ka tsali
# となる。 また、「強くなった」という意味は、 zenba の代わりに間制詞を使っても表現できる:
# mi pu co'a tsali
# 同様の方法で、強さが減ったことを表すと、以下のようになる。
# mi ca co'i tsajdika
# mi ca co'i jdika lo ka tsali
# mi pu co'u tsali

最後に、「traji」をテルタウとする、最上級を表すルジヴォを考えよう。 「traji」の PS は以下のようになっている。

15.9)  t1 は t2(性質)・t3(極性)・t4(集合/範囲)に関して極致(最上/最下)
ギスム「xamgu」について考えよう。 この PS は以下のようになっている。
15.10) xa1 は xa2 にとって、xa3(基準)で良い/好ましい
比較級の形は「xagmau」で、「より良い」という意味になる。 これの PS は上述の規則に従って次のようになる。
15.11) z1 は z2 よりも xa2 にとって xa3(基準)で z4(度合)ほど良い
これに倣って、最上級の形「xagrai」の PS を考えると、以下のようになる。
15.12)  xa1=t1 は t4(集合/範囲)に関して xa2 にとってxa3(基準)で最も良い
「traji」の t2 の場所には、普通は性質抽象が入るが、ここではセルタウの場所に置き換えられている。 そして、 t3 の場所は「traji」の極致(最上または最下)を指定し、デフォルトでは「最上」の方を意味する。

「traji」の場所 t1 が比較される範囲となる集合は t2 ではなく(もしそうだったら、「traji」の PS は「zmadu」の PS と完全に対応するのだが)、 t4 だ。 しかし、場所の配置の規則の例外として、「traji」をテルタウとするルジヴォの t4 は、ルジヴォの2番目の場所になる。 例えば以下のような文になる。

15.13) la djudis. cu citrai lo'i lobypli
       ジュディはロジバン話者の中で最も若い。 

15.14) la .ainctain. cu balrai lo'i skegunka
       アインシュタインは全ての科学者の中で最も偉大だ。 
# 比較・最上をルジヴォに組み込まずに、BAI 類で表現することができる。 その場合、ルジヴォではないので、 PS を気にかける必要がない。 BAI 類を使うと、例15.3例15.5例15.13は以下のように書き換えられる。
# mi citno semau do vemau lo nanca be li xa
# do citno seme'a mi veme'a lo nanca be li xa
# la djudis. citno verai lo'i lobypli

16. ギスムの PS に関する覚書

ルジヴォの PS と違って、ギスムの PS は系統立った方法で決められたものではない。 場合ごとに詳しく分析して、変更のために何度も検討し直して決められたものだ。 (今はギスムのリストの変更は停止しており、更なる変更は考えられていない。 )しかし、場所の選択にもその配列にも、ある種の規則性は持たせてあるので、その規則をここで述べれば、学習者にもルジヴォ作成者にも助けになるだろう。

ギスムの場所の選択は、「簡潔さ」「便利さ」「形而上学的な必要性」「規則正しさ」という4種類の要素の力のバランスの結果で決まる。 この4つは、この章で述べられた方法で作られるルジヴォの PS においても、ある程度、基礎となる要素だ。 これらの要素の働きの概略を述べよう。

ギスムの PS の例をいくつか取り挙げて、上記の4つの力関係がどう働くか見てみよう。

16.1)  xekri:  xe1 は黒色
「簡潔さ」がここで最も重要な到達点となった。 その力は「形而上学的な必要性」の解釈の1つによって強化された。 よく指摘されることだが、ここには色の基準についての言及が何も無い。 他の色を表すギスムと同様、「xekri」は明示的に主観的だ。 客観的な色の基準は「ci'u」(「~を尺度として」第9章を参照)などの BAI 類のタグによって導入できる。 あるいは、ルジヴォを作ることによっても導入できる。
16.2)  jbena: j1 は j2(産主)により j3(日時)のとき j4(所)に生まれる
ギスム「jbena」には、他のギスムにはあまりない、時と所を表す場所が含まれている。 普通、何かがなされる時と所は、間制タグによって与えられる(第10章を参照)。 しかし、このように時と所を表す場所があれば、「le te jbena」で生年月日を、「le ve jbena」で出生地を、簡単に表せる。 だから、「形而上学的な必要性」は無いけれども、(# 「便利さ」のために)これらの場所が与えられている。
16.3)  rinka: r1(事)は r2(事)を r3(条件)において引き起こす
# 原文では r3 が省かれている。
「rinka」の PS には行為主の場所が無い。 これは「形而上学的な必要性」を考慮した結果である。 因果関係には行為主を含める必要が無い。 ある事象(山の雪融けなど)が別の事象(ナイルの氾濫など)の原因となるかもしれないが、そこに人間が介入する必要は無いし、人間が知っている必要さえ無い。

実際、ほとんどのギスムについて、行為主を表す場所は消される傾向がある。 行為主の場所があるのは「gasnu」や「zukte」など少数のギスムだけであり、必要に応じてこれらをテルタウとして使えば、行為主の場所を復活させることができる。 これについては第13節を参照。

16.4)  cinfo: c1 は c2(種類)のライオン/獅子
「cinfo」の場所 c2 は、「規則正しさ」を考慮した結果として与えられた。 動植物のギスムには全て、種類を表す場所 x2 がある。 実際にはライオンの種は1つしかないし、亜種はあるが、ライオンの話をするときに重要な情報ではない。 しかし、犬のように品種が豊富なものや、「cinki」(虫)のように一般的な語には、種や亜種を表す場所が必要だ。 だからこの場所は「規則正しさ」のために、他の動植物全てに与えられている。

ギスムの PS の順序について言えることは多くないが、いくつか明らかな規則性はある。 場所は、心理的に顕著な順、重要な順に並べられる傾向がある。 「klama」の PS はそういう順番で並べられている。 例えば「lo klama」(行く者)については 「lo se klama」(行き先)よりも多く話される、つまり、より重要だろうし、「lo se klama」は「「lo xe klama」(行く手段)よりも重要だろう。

いくつかの特徴的な傾向も(規則とは言えないが)見られる。 例えば、行為者の場所があれば、それが x1 となる傾向がある。 同様に、終点や起点を表す場所があれば、終点の場所が起点の場所の直前に置かれる。 「の条件の下に」とか「を基準として」といった場所は使われないことが多いので、 PS の後ろの方に置かれる。