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第11章: 出来事、質、量やその他のあいまいな言葉: lojban(?)における抽象化について

1. 抽象化の文法

lojban(?)における「抽象化」の仕組みは、ブリディ全体をひとまとめにして、1つのセルブリのように扱う手段として導入された。文法的には、抽象化はシンプルで、覚えなければいけない規則も少ない。だが、抽象化によって表現可能になる意味内容は複雑で豊かであり、様々な切り口の、独立した観点の抽象化が用意されている。ここではまず文法に焦点をしぼって説明を始めよう。表せる意味内容について全体像が見えるまでは、抽象化を使う意味が感じられないかもしれないが、まずは第2節までお付き合いいただきたい。

抽象化セルブリを作るには、ブリディをまるまる1つ持ってきて、NU類のシマヴォをどれでもよいので1つ先頭に付ければよい。そうしたシマヴォは全部で12個あり、「抽象詞」と呼ぶ。さらにこのブリディはKEI類の省略可能な終端詞、keiで閉じられる。つまり以下のブリディを

1.1)  mi klama le zarci
    私はその店に行く。

NU類の1つ、nuを使った抽象化に変換するには

1.2)  nu mi klama le zarci [kei]
    私がその店に行くという出来事

とすればよい。ブリディは単純にセルブリだけでもよいし、上の例のようにスムティ付きでもよい。keiを不用意に省略することには注意が必要だ。多くの抽象化セルブリの用法では、keiを省略してしまったら、後に続く単語が抽象化の中に取り込まれてしまうからである。

(厳密には、keiは常に省略可能である。というのも一般的なブリディを閉じる省略可能な終端詞vauで代用できるからである。しかし、keiは抽象化に限定された終端詞であり、ほとんどの場合、keiの方がより意味が明確になる。)

抽象化セルブリの使い方は、文法上は単純なブリヴラとまったく同じである。特に、抽象化セルブリは例1.2のように観察文として使うことができる。次の例ではタンルに使われている:

1.3)  la djan. cu nu sonci kei djica
    ジョンは兵隊でありたいと望む。

抽象化セルブリは、le (やその他のLE類)を先頭に付けることで、描写としても使うことができる:

1.4)  la djan. cu djica le nu sonci [kei]
    ジョンは兵隊であるという出来事を望む。

抽象化を含む描写は多くの場合ブリディの終わりか、主体となるセルブリとそのcuの直前に置くことになる。このどちらの場合でも、keiは通常省略可能になる。

抽象化セルブリの場所構造は、使われている抽象詞によって異なる。詳しくは後で個々の抽象詞と一緒に説明しよう。

注: 抽象化の中のブリディについては、訳語の文法をそれと分かるように変えている。そのため、例1.2では「私はその店に行く」ではなく「私がその店に行くという出来事」となる。同様に、例1.3例1.4でも「兵隊である」ではなく「兵隊であること」となっている。この訳し方は、より分かりやすい訳をという意図からであり、lojban(?)側の文法上の違いを示すものではない。ブリディはブリディであり、抽象化セルブリの中であっても変化することはない。

2. 出来事の抽象化

この節では以下のシマヴォを解説する:

nu  NU  出来事の抽象詞

第1節の例では、抽象詞として最も一般的なnuを使った。その役割は、ブリディ全体で表される出来事や状態を1つの枠に収めることにある。ここで、nu抽象詞を用いたle描写スムティと、leのみを用いた描写スムティを混同しないように注意したい。以下のスムティはそれぞれ違う意味になる:

2.1) le klama
    その行く者、その行くところのもの
2.2) le se klama
    その行き先
2.3)   le te klama
    その出発したところ
2.4)   le ve klama
    その経路
2.5)   le xe klama
    その移動手段
2.6)   le nu klama
    誰かが何処かに何処かから何らかの経路で何らかの手段で行く出来事

例2.1から2.5までは、それぞれセルブリ(klama)の5つのスムティの場所を取り出した描写である。例2.6は、ブリディ全体に対応する物事、つまりその出来事を描写している。

lojban(?)で「出来事」と言う場合の意味と、「短期間に起こる何か」という日常生活で使われる意味合いとの間にはギャップがあることに注意したい。以下の描写は

2.7)  le nu mi vasxu
    私が息をする出来事

私が生きている限り継続する「出来事」である (一般的には)。一方、

2.8)  le nu la djan. cinba la djein.
    ジョンがジェーンにキスする出来事

は比較的短い (これまた一般的には)。

例2.6から2.8で分かるように、抽象化セルブリの中のブリディにおいてもスムティの省略は有効である。相手が文脈からスムティの内容を読み取れるか、もしくは実際何なのかは重要ではないと読み取れる場合は、スムティは省略することができる。描写の中のnu抽象化で、x1の場所が省略されることはよくある:

2.9)  mi nelci le nu limna
    私は泳ぐことが好きだ。

は省略的であり、ほぼ間違いなく以下を意味している:

2.10)    mi nelci le nu mi limna
    私は私が泳ぐところの出来事が好きだ。

もちろん、文脈さえ許せば、例2.9は他の誰かが泳ぐという出来事かもしれない。日本語では「私は泳ぐのが好きだ」と言った場合、「私はフランクの泳ぐのが好きだ」と解釈することはできない。これはlojban(?)と日本語の根本的な違いである。lojban(?)では、省略されたスムティは文脈上指示されるべきどんな内容でも指すことができる。

スムティ内にNU類のシマヴォが明示されていない場合、抽象化が暗黙に含まれている可能性があることに注意したい。例2.10の文脈の中でle se nelci(「好かれているもの」)と言った場合、これは事実上の抽象化である:

2.11)    le se nelci cu cafne
    私が好きなことはよく起こる。

それはこの文脈では以下を意味する

私が泳ぐことはよく起こる。

le nuを使った出来事の描写は、ギスムやルジヴォの場所構造のうち、「…の条件で」となっている場所を埋めるのにもよく使われる。

2.12)    la lojban. cu frili mi
       le nu mi tadni [kei]
   勉強している時は、lojban(?)は私にとって簡単だ。

(訳中の「時」はlojban(?)の間制に関わる文でも登場するが、上記の原文では「勉強と簡単さが同時並行して起こる」ということ以上の意味が含まれている。)

nuを用いた抽象化セルブリの場所構造は単純に:

x1 は(ブリディの内容)という出来事である

である。

3. 出来事の様々な側面を抽象化する

この節では以下のシマヴォを解説する:

   mu'e    NU  瞬間的出来事の抽象詞
    pu'u    NU  過程の抽象詞
    zu'o    NU  活動の抽象詞
    za'i    NU  状態の抽象詞

nuを用いた出来事の抽象化の仕組みがあれば、どんな出来事であれ、長いものも短いものも、1回きりのものも繰り返し起こるものも、表現することができる。しかし、lojban(?)には、さらに細かな粒度で出来事を描写する仕組みが備わっている。NU類にはさらに4つの抽象詞があり、4つの出来事の種類を描写するのにそれぞれ特化している。これは同じ出来事を4つの視点から見るということでもある。

時間軸上の点として考えた場合の出来事は瞬間的出来事、あるいは到達点と呼ばれる。(後者はここでは成功や勝利といった意味合いとは切り離して考えてほしい。)瞬間的出来事は実際には長さを持っていてもいいが、内部構造を持たない単一のものとしてとらえた場合には瞬間的出来事として扱う。瞬間的出来事を意味する抽象詞はmu’eである:

3.1)  le mu'e la djan. catra la djim. cu zekri
    ジョンがジムを殺す (時間軸上の一点と見なされる)
        のは犯罪だ。

時間軸上で幅をもち、始め・1つ以上の段階を含む中間・終わりの構造をもっていると見なした場合の出来事は「過程」と呼ぶ。「〜の過程の」を意味する抽象詞はpu’uである:

3.2)  ca'o le pu'u le latmo balje'a
        cu porpi kei
        so'i je'atru cu selcatra
    ローマ帝国の衰亡期の間、多くの皇帝が殺された。

時間軸上で幅をもち、周期的あるいは反復的と見なした場合の出来事は「活動」と呼ぶ。「〜の活動の」を意味する抽象詞はzu’oである:

3.3)  mi tatpi ri'a le zu'o mi plipe
    私が疲れているのは私がジャンプしているからだ。

起こっているか、起こっていないかをくっきりと分けることができるものとして考えた場合の出来事は、「状態」と呼ぶ。「〜の状態の」を意味する抽象詞はza’iである:

3.4)  le za'i mi jmive cu ckape do
    私が生きているというのは君にとっては危険だ。

例3.1から3.4の抽象詞は、少し正確さを犠牲にすれば、すべてnuで代用することができる。lojban(?)ではどんな出来事も、これらの4つの視点からとらえなおせることに注意しよう:

「走るという状態」は走者がスタートした時に始まり、 走者が止まった時に終わる。

「走るという活動」は以下の繰り返しである: 脚を上げ、 踏み出し、脚を下ろし、もう一方の脚を上げ、…。(この1つ1つの動作は 過程だが、活動はこの一連の動作の繰り返しで構成される。

「走るという過程」は、初めのスパート、途中の安定したスピード、 そして最後の減速に注目する。

「走るという到達点」は日本語ではほとんどなじみの無い概念だが、 走るという出来事を分割できない1つのものとして見たものである。 例として「フェイディピデスはマラトンからアテネに走る」(一番最初のマラソン)がある。

出来事の種類については第12節でさらに詳しく述べる。

出来事の種類をあらわす4つの抽象詞はそれぞれ以下の場所構造を持つ:

”mu’e”
x1は(ブリディの内容)という瞬間的出来事である
”pu’u”
x1は(ブリディの内容)という過程で、x2の(複数の)段階を踏む
”za’i”
x1は(ブリディの内容)が真であるという連続した状態である
”zu’o”
x1は(ブリディの内容)という活動で、x2という一連の動作の繰り返しで構成される

4. 性質の抽象化

この節では以下のシマヴォを解説する:

   ka  NU  性質の抽象詞
    ce'u    KOhA    

le nu描写で描写される物事は (もしくは、別の言い方をすれば、nuセルブリに変換しても正しい表現になる物事は)、抽象度でいえばまだ中くらいである。まだまだ時空間上の出来事に限定されている。しかし、性質の抽象化という、時空を超越した抽象化がある。「青くあるという性質」とは、あるいは「行くものであるという性質」とは一体何だろうか? これは論理学者であれば「内包」と呼ぶものになる。もしジョンが心臓をもっているとすると、その場合「心臓をもっているという性質」は、ジョンに適用すると真となる抽象的なモノである。実際、

4.1)  la djan. cu se risna zo'e
    ジョンは心臓をもっている。

は以下と同じ条件で真あるいは偽となる:

4.2)  la djan. cu ckaji
        le ka se risna [zo'e] [kei]
    ジョンは心臓をもっているという性質をもっている。

(「もっている」という言い方は、lojban(?)で性質の議論をするときにはよく出てくる。物事はある性質を「もっている」と表現されるのだが、これは「私はお金をもっている」と言う時の「もつ」、つまり所有とは違った意味になる。)

性質の描写は、出来事の描写と同じように、ブリヴラの場所を埋めるのによく使われる:

4.3)  do cnino mi
        le ka xunre [kei]
    あなたは私にとって赤さの点で新しい。

(「~さ」は性質の抽象化であることが多い。)

性質の描写を例4.3のx1の場所にもってくることもできる:

4.4)  le ka do xunre [kei] cu cnino mi
    あなたの赤さは私にとって新しい。

例4.34.4は、ビーチから日焼けして戻ってきた人に向かって言うのにぴったりだろう。

ブリディから抽出できる性質は複数あり、どの性質が実際抽出されるかは、ブリディの場所のうち、どれが外側で定義されていると「思われる」かによってくる。つまり、以下の例は

4.5)  ka mi prami [zo'e] [kei]
    私が不特定の何かを愛するという性質

以下の例とはかなり違う意味になる。

4.6)  ka [zo'e] prami mi [kei]
    不特定の何かが私を愛するという性質

特に、例4.7例4.8のような文はかなり違う意味になる:

4.7)  la djan. cu zmadu la djordj. le ka mi prami
    ジョンは、(私がXを愛する)という性質の上でジョージを超えている。
    私がジョージを愛するよりももっと私はジョンを愛している。
4.8)   la djan. cu zmadu la djordj. le ka prami mi
    ジョンは、(Xが私を愛する)という性質の上でジョージを超えている。
    ジョージが私を愛するよりももっとジョンは私を愛している。

例4.74.8の逐語訳ではXを穴埋め語として使っている。このXはlojban(?)では省略として表現することはできない。省略を使う場合、第2節でも触れたように、特定の指示する対象が存在しなければいけないからである。代わりに、KOhA類の1つであるシマヴォ、ce’uを使ってスムティを明示する。(逐語訳ではXをあてている。)

よって例4.7を、省略ではなくより明示的な表現を使った場合は:

4.9)  la djan. cu zmadu la djordj. le ka mi prami ce'u
    ジョンは、(私がXを愛する)という性質の上でジョージを超えている。

そして例4.8は:

4.10)    la djan. cu zmadu la djordj. le ka ce'u prami mi
    ジョンは、(Xが私を愛する)という性質の上でジョージを超えている。

この仕組みで、以下のような場合にあいまいさを回避することができる:

4.11)    le ka [zo'e] dunda le xirma [zo'e] [kei]
    その馬を与えるという性質

1つの解釈は:

4.12)    le ka ce'u dunda le xirma
        [zo'e] [kei]
    (Xはその馬を不特定の誰かに与える)という性質
    その馬を誰かに与える者という性質

これは例4.11の最も自然な解釈である。それに対して:

4.13)    le ka [zo'e] dunda
        le xirma ce'u [kei]
    (不特定の誰かがその馬をXに与える)という性質
    その馬を与えられる者という性質

これも解釈の1つとして可能である。

ka抽象化内に2つ以上のce’uをおくこともできる。その場合、性質の抽象化から関係の抽象化に変わることになるが、この仕組みが持つ言語上の可能性はまだ検証され尽くしていない。

ka抽象化の場所構造は単純に:

x1は(ブリディの内容)という性質である

5. 量の抽象化

この節では以下のシマヴォを解説する:

   ni  NU  量の抽象化

量の抽象化で表現できる内容は、出来事や性質よりはるかに限定的である。抽象化されたブリディのセルブリについて、何らかの測定をすることができる場合にしか意味をなさない。つまり以下のような文は自然である:

5.1)  le ni le pixra cu blanu [kei]
    その絵に含まれる青さの量

「青さ」は色彩計やその他の機器で計測することができるからである。しかし、

5.2)  le ni la djein. cu mamta [kei]
    (ジェーンが母親であること)の量
    ジェーンの母親らしさの量(?)
    ジェーンに含まれる母親らしさの量(?)

という文はlojban(?)でも日本語でもほとんど意味をなさない。母親であることについて、計測できるような尺度がないのである。

意味の上では、le niの付いたスムティは数をあらわす。しかし、lojban(?)の文法上でこれを数量として扱うには、mo’eというシマヴォを前に付けなければいけない:

5.3)  li pa vu'u mo'e
        le ni le pixra cu blanu [kei]
    数 1 引く 被演算子
        (絵が青い)という量
    1 - B, ここで B は絵の青さ

lojban(?)における数学の表現はこの章で扱う範囲を越えているので、第18章で詳しく取り上げる。

文脈によっては、性質、量のどちらの抽象化も考えられる場合がある。そうした文では、量の抽象化内でも、性質の抽象化と同じように、ce’uを使うことができる。つまり、

5.4)  le pixra cu cenba le ka ce'u blanu [kei]
    その絵は青いことの点で変化する。
    その絵は青さが変化する。

は下の例とは別の意味合いになる。

5.5)  le pixra cu cenba le ni ce'u blanu [kei]
    the picture varies in-the amount-of (X is blue)
    その絵はどれくらい青いかの点で変化する。
    その絵は青さが変化する。

例5.4では青さが現れたり消えたりすることを表現しており、例5.5ではその量が時間と共に変わることを表現している。

何らかの量を計測する、という時には尺度が必要である。そこでni抽象化のセルブリの場所構造は:

x1 は (ブリディの内容) を x2 の尺度で測った時の量である

注: 抽象スムティのx2の場所を表現するには、「le ni … kei be」のような言い方が最も適当である。例9.5ではこれが使われている。

6. 真偽値の抽象化: jei

第5節で取り上げた「絵の青さ」は、青色の色素 (や、その他の青さの素) の量を指しており、「青さが存在することの正しさ」ではない。後者の抽象化はlojban(?)ではjeiを使って表現される。これは意味の上でniと関連が深い。単純な使い方では、le jeiは数のかわりに真偽値を表す:

6.1)  le jei li re su'i re du li vo [kei]
    2 + 2が4であることの正しさ

これは「真」と等しく、

6.2)  le jei li re su'i re du li mu [kei]
    2 + 2が5であることの正しさ

こちらは「偽」と等しい。

しかし、世の中の全ては (lojban(?)においてさえ) 単に正しいか正しくないかの二通りではない。正しさにも度合いがあるものである。lojban(?)ではjeiを使って、どの程度の正しさを意図しているかを表現することができる:

6.3)  mi ba jdice le jei
        la djordj. cu zekri gasnu [kei]
    私はジョージが犯罪者かどうかを今後判断する。

例6.3ではジョージが犯罪者であることは確定的なのか、そうでないのかは示唆されていない。私が判断の基盤とする法的システムによっては、中間的な結論を下すことも考えられる。こうしたことから、jeiはniのそれと同じように、x2の場所が必要となる:

x1 は(ブリディの内容) についての、x2の認識論上での真偽値である

jeiを使った抽象化は、lojban(?)であいまいな値を扱うための仕組みである。jei抽象化は、両端を含む0から1までの数値を指す (ここはni抽象化と違っているところで、niでは範囲が限定されない尺度を使うことが多い)。あいまいな値を表現する場面で、どのようにjeiを使うかの詳しいルールはまだ確立されていない。

7. 断言/文の抽象化

この節では以下のシマヴォを解説する:

   du'u    NU  断言の抽象化

セルブリの中には、一つの断言全体をスムティにとるものがある。断言を1つのものとして考え、それについて何らかの主張をするのである。論理学では、これらは命題的態度と呼ばれるもので、(日本語では) 知っている、信じる、知る、見る、聞く、などが含まれる。次の日本語の文を考えてみよう:

7.1)  私はフランクが馬鹿な奴だと知っている。

これはlojban(?)ではどう表現すればいいだろうか? やってみよう:

7.2)  mi djuno le nu la frank. cu bebna [kei]
    私はフランクが馬鹿な奴であるという出来事を知っている。

これは少し違う。出来事は、現実世界に起こる、または起こり得るものである。考える、感じるといった出来事でない限り、頭の中に存在することはできない。例7.2はほとんど、フランクが馬鹿な奴であるということは、話し手がそう考えたに過ぎないと言っているのに近い。 (実のところ、例7.2は言葉足らずな「スムティ昇格」の例である。これについては第10節で詳しく説明しよう。)

もう一度やってみよう:

7.3)  mi djuno le jei la frank. cu bebna [kei]
    私はフランクが馬鹿な奴であるということの真偽値を知っている。

さっきよりはよくなった。しかし、例7.3は私はフランクが馬鹿な奴かどうかを知っていると述べているが、例7.1のように実際そうだとは言っていない。この意味合いを表現するには、こう言わなければいけない:

7.4)  mi djuno le du'u la frank. cu bebna [kei]
    私はフランクが馬鹿な奴だという断言を知っている。

これでぴったりの表現に辿り着いた。この文に暗黙に含まれている「フランクは馬鹿な奴である」という主張は、le du’u抽象化ではなく、djunoに起因するものであることに注意したい。私達が知っていると言えるのは、実際に真実のことだけだからだ。(だから、djunoには、jeiのように認識論のための場所があり、どのようにして知っているのかを言い表せる。) 次の例7.5ではそうした暗黙の主張はない:

7.5)  mi kucli le du'u la frank. cu bebna [kei]
    私はフランクが馬鹿な奴であるかどうかに興味がある。

恐らく、この文のdu’uをjeiに置き換えてもほとんど意味は変わらない:

7.6)  mi kucli le jei la frank. cu bebna [kei]
    私はフランクが馬鹿な奴であるというのがどれくらい正しいかに興味がある。

du’uにはx2の場所が設けられており、ブリディを表現する文 (何らかの句) を置くことができる。これは論理的な必要性というより、便宜上の理由からである:

x1は(ブリディの内容)の断言で、x2で表現されている

le se du’uという言い回しは、話す・書くなど、言語活動にまつわるセルブリの場所を、ブリディで埋めたい時に大変便利である:

7.6.5)  la djan. cusku
        le se du'u
            la djordj. klama le zarci [kei]
    ジョンは「ジョージが店に行く」という内容を表現する文を述べる。
    ジョンは、ジョージは店に行くと言う。

例7.6は次の例とは違う意味である:

7.7)  la djan cusku
        lu la djordj. klama le zarci li'u
    ジョンは、「ジョージは店に行く」と言う。

というのも、例7.7では、ジョンは引用された文を実際に発言したと述べているが、例7.6では、ただ同様の内容を表す何らかの語句を発言した、としか述べていない。

le se du’uは、断言を表す言葉という点では、lu’e le du’uとほぼ同じだが、se du’uはセルブリとして使えるのに対して、lu’eはセルブリ内では非文法的である。(第5章にlu’eの詳しい説明がある。)

8. 間接疑問

この節では以下のシマヴォを解説する:

   kau UI  間接疑問のマーカー

du’u及び命題的態度を表すセルブリを使って、別の切り口から物事を表現する方法を紹介しよう。以下の文は、前節で取り上げた形式の文である:

8.1)  私はジョンが店に行ったと知っている。

そうではなく、こうした表現方法を考えてみよう:

8.2)  私は誰が店に行ったのか知っている。

これは英文法では「間接疑問」と呼ばれる。内側にある文「誰が店に行ったのか」が疑問文になっているためである。例8.2のように発言した人は、この質問への答えを知っていると表明している。間接疑問は他の動詞でも可能である: 私は誰が店に行ったのかを知っているかもしれないし、「疑問に思う」「見た」「聞いた」かもしれない。

lojban(?)で間接疑問を表現するには、le du’u抽象化を使う。ただし、「誰」のような疑問詞 (lojban(?)ではma)は使わず、文法的に許容される単語を何か一つあてはめ、それに後置するkauをつけることで表現する。このシマヴォのセルマホはUI類であり、文法的にはどこに入れてもよい。これを踏まえると、例8.2のもっともシンプルなlojban(?)訳は、こうなる:

8.3)  mi djuno le du'u
        makau pu klama le zarci
    私はX[間接疑問][過去]が店に行くという断言を知っている。

例8.3では、maを置き、それにkauをつけたが、他のどんなスムティでも問題ないのである: zo’eやda、それにla djanでさえも問題ない。ここでla djanを使った場合は、私が店に行ったと知っている人物はジョンだということをほのめかす文になる:

8.4)  mi djuno le du'u
        la djan. kau pu
            klama le zarci
    私はジョン[間接疑問][過去]が店に行くという断言を知っている。
    私は誰が店に行ったのか知っており、それはジョンである。
    私は店に行ったのはジョンだと知っている。

ma、zo’e、daなどの不定の代スムティを使った場合は、特定の内容を示唆することはない。

lojban(?)ではmaを使わず、kauマーカーを導入しているのは何故だろうか? 英語や中国語や、その他の多くの言語ではmaのような疑問詞を使う方式なのに。それは、maは常に直接疑問を意味するからである。つまり、

8.5)  mi djuno le du'u
        ma pu klama le zarci
    私は[どのスムティか?][過去]が店に行くという断言を知っている。

の意味は

8.6)  私が店に行くと知っているのは誰か?

になる。間接疑問の対象がスムティの場合は、実はle du’uとkauを使わずに表現することも可能である。ほとんどの場合、以下のような言い換えができる:

8.7)  mi djuno fi le pu klama be le zarci
    私は、店に行った者について、あることを知っている (具体的には、誰であるかについて)。

djunoのx3は知られている事柄の主題であり、知られている事柄そのものではないため、こうした表現ができる。しかし、疑問の対象がスムティではない場合、例えば論理接続の場合、kauを使う以外に方法はない:

8.8)  mi ba zgana le du'u
        la djan. jikau la djordj.
            cu zvati le panka
    私はジョン[論理接続の間接疑問]ジョージが公園にいるという断言を[未来]観測する。
    私はジョンもしくはジョージ(それとも両方が)公園にいることをこれから見るだろう。

さらに付け加えると、例8.7例8.3のおおよその言い換えでしかない。というのも、店に行った者について知られている事柄が、それが誰であるかということで、他の何らかの属性ではないということを、聞き手側が汲み取らなければいけないからである。

9. あまり使われない抽象化

この節では以下のシマヴォを解説する:

   li'i    NU  経験の抽象詞
   si'o    NU  概念の抽象詞
   su'u    NU  汎用的抽象詞

lojban(?)にはさらに以上の3つの抽象詞があるが、これらは今のところあまり使われていない。li’i抽象詞は経験を表す:

9.1)  mi morji le li'i mi verba
    私は(私が子供である)という経験を思い出す

si’o抽象詞は心の中で思い描いたイメージや、概念、考えを表す:

9.2)  mi nelci le si'o la lojban. cu mulno
    私はlojban(?)が完成するという考えが好きだ。

su’uは特定の意味のない抽象詞で、具体的な意味は文脈から読み取る必要がある:

9.3)  ko zgana le su'u
        le ci smacu cu bajra
    あなたは3匹のねずみが走ることの抽象的性質を[命令]見る
    3匹のネズミだ、ごらん、あんなに走るのを!

# Three Blind Miceというイギリスの伝承童謡より。

これらの3つの抽象詞にはすべてx2の場所がある。経験には経験する者が必要なので、li’iの場所構造は以下のようになっている:

x1は、x2によって経験される、(ブリディの内容)という経験である

同様に、考えは、それを考える精神が必要である。そこでsi’oの場所構造は:

x1は、x2の精神における(ブリディの内容)という考え/概念である

最後に、su’uによる抽象化がどういう種類のものかを指定できるようにするため、その場所構造は:

x1は、(ブリディの内容)ということの抽象的性質で、x2の種類のものである

su’uのx2の場所を活用することで、他の抽象詞の代わりにしたり、新しい抽象詞を作ったりすることができる。例えば、

9.4)  le nu mi klama
    私が行くという出来事

は、次のように言い換えることができる:

9.5)  le su'u mi klama kei be lo fasnu
    (私が行く)ということの抽象的性質で、出来事の種類のもの

また、とある本の題名をlojban(?)に訳すと以下のようになる:

9.6)  le su'u la .iecuas. kuctra
        selcatra kei
        be lo sao'rdzifa'a
        ke nalmatma'e sutyterjvi
    (イエスが十字様式で殺される)ということの抽象的性質で、下り坂的な非自動車のスピード競争の種類のもの
    ダウンヒル自転車レースと見なした時のキリストの磔刑

su’u(やその他の抽象詞)のx2を指定する際に、su’uの後にkeiを置いていることに注意しよう。keiが無ければ、be loが抽象化ブリディの中に取り込まれてしまうので、このkeiはなくてはならないものである。

10. lojban(?)のスムティ昇格の仕組み

この節では以下のシマヴォを解説する:

   tu'a    LAhE    -に関する何らかの抽象化
   jai JAI 抽象化の転換

抽象的描写が要求される場面であっても、時には抽象化の形式では表現しづらいこともある。 日本語ではこういう表現が可能だ:

10.1)    私はドアが開かないか試してみる。

これはlojban(?)では:

10.2)    mi troci le nu
        [mi] gasnu le nu
            le vorme cu karbi'o
    私は
        (私は
            (ドアが開いた状態になる)
        という出来事の動作主である)
    という出来事を試す。

抽象的描写の中にさらに抽象的描写が含まれるという、かなり複雑な構造になってしまう。日本語では、こう言うこともできるが (他の言語でも可能とは限らない):

10.3)    私はドアを試す。

暗黙の理解として、ここで試されているのはドアそのものではなく、開けるという行為なのである。lojban(?)でも同じような簡略化した表現が可能だが、特別なシマヴォで明示する必要がある。それがセルマホLAhEに属するシマヴォ、tu’aである。例10.3はlojban(?)では以下のようになる:

10.4)    mi troci tu'a le vorme
    私はドアについての何らかの行為を試す。

この節の題名にも使われている、スムティ昇格という呼称は、本来抽象化の中に属する(あるいはさらに別の抽象化の中にある抽象化に属する)はずのスムティが、文の中心となるブリディのレベルにまで「引き上げられる」ことを意味している。例10.2から例10.4に言い換えることで、失われてしまう情報もある。実際の抽象化が具体的に何だったのかを知る手がかりは、文脈と常識を頼るしかないのだ。

tu’aを使うのは、ある意味手間を抜いているともいえる。話す内容が簡単になるが、それと引き換えに、聞き手にとっては内容の明解さが犠牲になる。話し手は、聞き手がこんな風に応じてくるのを覚悟しなければならない:

10.5)    tu'a le vorme lu'u ki'a
    ドアにまつわる何か [終端詞] [混乱!]

つまり、「tu’a le vorme」が何のことか分からない、と。 (例10.5ではtu’aの終端詞、lu’uを使うことで、何が不明なのかを明確にしている。もしこれが無ければ、vormeという言葉が問題かもしれないし、スムティ昇格かもしれない。) 以下は本当に意味の取りようのないスムティ昇格の例である:

10.6)    tu'a la djan. cu cafne
    ジョンに関する何かは頻繁に起こる。

これはおそらく、ジョンがやる何か、あるいはジョンに起こる何かが頻繁である、という意味に違いない。だが、より詳しい文脈が無い以上、本当は何なのかを知る手がかりはない。

ここでもしtu’aが無かった場合、例10.6は、出来事としてのジョンは頻繁に起こる、という意味になる。つまり、ジョンは存在したり存在しなかったりする何ものか、ということになる! 日本語では人のことを出来事としてとらえることは無いが、cafneのx1の場所が出来事である以上、出来事らしくないものがそこに入っていても、lojban(?)的思考の聞き手は何とかそのように解釈しようとする。(もちろん上の解釈は、djan.は人の名前であり、何らかの出来事の名前ではないことを前提にしている。)

整合性を考えると、tu’aを補うもの、つまり抽象スムティをさらに具体的なものに転換する仕組みが必要である。これはセルブリのレベルで、セルマホJAIに属するシマヴォ、jaiを用いることで実現される。このシマヴォには複数の機能があり、詳しくは第9章第10章で述べている。この章では、セルブリの転換をおこなうものとしての役割に注目しよう。この転換はSE類と似ており、例えば以下の文を

10.7)    tu'a mi rinka
        le nu do morsi
    私の行為があなたの死を引き起こす。

以下の文に転換する:

10.8)    mi jai rinka le nu do morsi
    私があなたの死を引き起こす。

日本語では「引き起こす」の主語を、直接の原因(出来事)としてもよいし、その原因の動作主(多くの場合は人)としてもよい。だがlojban(?)ではrinkaのx1は常に出来事である必要がある。その表現方法としては、例10.7例10.8はどちらも同じくらい簡便(もしくは同じくらい複雑)にみえるが、描写を表現しようと思った場合、例10.8であれば以下のように言い換えることができる:

10.9)    le jai rinka
        be le nu do morsi
    あなたの死を引き起こした者

jaiがセルブリ自体を転換しているので、そのまま描写に組み入れることができるのである。tu’aの場合はそうはいかない。

jaiを描写の中で使う場合の弱点は、描写セルブリのx1の場所が、元々あった抽象化のうちどの項を引き上げたものかが不明確な点である。これを明示したい場合は、第9章で登場する、jaiの法制形式を利用することができる:

10.10)  le jai gau rinka
        be le nu do morsi
    (あなたの死という出来事)の動作主であるもの

11. 出来事系抽象詞と事象線の間制

この節は、第3節に出てきた内容の続きである。

第3節で登場した、出来事の4つの種類と、セルマホZAhOに属する事象線の間制シマヴォはお互いに関係している。NUのシマヴォと、ZAhOのシマヴォはお互いを意識した定義となっているのである。ZAhOの事象線はNUの出来事の分類とうまく協調するように選ばれているし、逆もまた然り、となっている。事象線については第10章で詳しく解説されているので、ここでは要約にとどめる。

ZAhOのシマヴォの目的は、出来事の特定の局面を自然なかたちで表現することである。例えば、始まり、その最中、終わりなど。大きく分けると以下のようになる:

pu’o、ca’o、ba’oは広がりのある時間を表し、それぞれ出来事が始まる前、 出来事が起こっている間、出来事が終わった後を示す。

co’a、de’a、di’a、co’uは時間軸上の一点を表し、それぞれ出来事の開始時点、 出来事が中断した時点、出来事が再開した時点、 出来事が終了した時点を示す。全ての出来事が中断するわけではないので、 de’aとdi’aはあてはまらない場合もある。

mo’uとza’oはそれぞれco’uとba’oと対になるもので、「自然な終了」の時点と 実際の終了時点が異なる出来事で使うことができる。mo’uは「自然な終了」時点を 指し、za’oは「自然な終了」時点と「実際の終了」時点の間の時間(「超過」している時間)を指す。

co’iは出来事全体を瞬間的出来事あるいは到達点として表現する。

これらのシマヴォはすべて、pu’uを抽象詞とし、過程としてとらえた場合の出来事に適用することができる。過程として見た場合にのみ、色々な「時点」や「広がりをもった時間」が意味を持ってくるからだ。

za’iを抽象詞とし、状態として見た場合の出来事に適用可能な事象線は、広がりのある時間、pu’oとca’o、ba’o、および開始点と完了点、co’aとco’u、そして到達線co’iである。状態では実際の終了と「自然な終了」は区別されない。(状態を中断したり再開したりできるものかは議論の余地がある。)

zu’oを抽象詞とし、活動として見た場合の出来事に適用可能な事象線は、広がりのある時間、pu’oとca’o、ba’o、および到達線co’iである。というのも、活動は本質的にいって周期的に繰り返されるものであり、開始と終了が明確に定義できないからである。活動が本当に始まったのかは、繰り返され始めるまではわからないのだ。

mu’eを抽象詞とし、瞬間的出来事として見た場合の出来事に適用可能な事象線は、広がりのある時間、pu’oとba’o (瞬間的出来事には長さがないのでca’oは含まれない)、それに到達線co’iである。

出来事の一部分自体を出来事として扱えることに注意しよう。時間軸上の一点はmu’eで表現される瞬間的出来事として見ることができるし、広がりのある時間はまるまる一つの過程や活動であるかもしれない。それゆえ、lojban(?)では過程に含まれる過程を表現したり、状態の中の活動といったさらに複雑な抽象的なものごとを表現できるようになっている。

12. 抽象詞の接続

抽象詞は、2つ以上の抽象詞を論理的または非論理的接続詞でつないだもので置き換えることができる。接続詞については、第14章で詳しく解説している。この接続表現は、抽象詞のみが違う複数のブリディを接続詞でつないだものに書き下すことができる。例13.1例13.2は同じ意味である。

13.1)    le ka la frank. ciska cu xlali
        .ije le ni la frank. ciska cu xlali
    フランクの作文の質はよくない、
        そしてフランクの作文の量はよくない。
13.2) le ka je ni la frank. ciska cu xlali
    フランクの作文の質と量はよくない。

この表現方法は滅多に使われておらず、どんな利用ができそうかについても白紙の状態である。

13. 抽象詞の一覧

以下の表に抽象詞と日本語による逐語訳、関連するギスム (何らかの関連がある、というほどのもので、直接的な関係があるわけではない。ここに出しているのは覚えやすさのためと思ってほしい)、そのラフシ、そして (続く行に) 場所構造を一覧にした。

nu -という出来事    fasnu       nun
        x1 は(ブリディの内容)という出来事である
ka  -という性質 ckaji       kam
        x1 は(ブリディの内容)という性質である
ni  -という量   klani       nil
        x1 は x2 の物差しで測った場合の(ブリディの内容)の量である
jei -という真偽値  jetnu       jez
        x1 は x2 の 認識論における(ブリディの内容)の真偽値である
li'i    -という経験   lifri       liz
        x1 は x2 という経験者にとって(ブリディの内容)という経験である
si'o    -という概念     sidbo       siz
        x1 は x2 の意識にとって(ブリディの内容)という考え/概念である
du'u    -という断言  -----       dum
        x1 は x2 の文によって表現された(ブリディの内容)というブリディである
su'u    -という抽象化  sucta       sus
        x1 は(ブリディの内容)という抽象的性質である
za'i    -という状態    zasti       zam
        x1 は(ブリディの内容)という状態である
zu'o    -という活動 zukte       zum
        x1 は(ブリディの内容)という活動である
pu'u    -という過程  pruce       pup
        x1 は(ブリディの内容)という過程である
mu'e    -という瞬間的出来事  mulno       mub
        x1 は(ブリディの内容)という瞬間的出来事/到達点である