poi NOI 限定関係節導入詞 ke'a GOhA 関係代スムティ ku'o KUhO 関係節終端詞
誰かが何かを指しているときに、何を指しているのかという問題について考えてみよう。ロジバンでは、代スムティ ti を使って近くのものを、 ta を使ってすこし離れたものを、tu を使って遠くのものを指すことができる(代スムティについては第7章参照)。
しかし、指(あるいは唇など文化によってさまざまだが)で指したとしても、何を指しているかを正確には言えないことがある。誰かが目のまえの人を指してこう言ったとする。
# 訳注: フィリピンでは唇で人や物を指す1.1) ti cu barda これ(ら)は大きい。
ti は何を指すのだろうか。その人だろうか。もしかするとその人の鼻かもしれない。あるいは、ti には複数、単数の区別がなく「これら」と「これ」の両方を表せるので、その人の鼻の毛穴を指すのかもしれない。
この問題を解決するために、ロジバンでは「関係節」という構文を使う。関係節はたいていスムティのうしろに置くが、この章のあとのほうで説明するように、関係節が置けるのはそこだけではない。関係節はセルマホ NOI に属する語で始まり、セルマホ KUhOに属する省略可能な終端詞 ku'o でおわる。おわかりのようにセルマホ NOI のシマヴォのひとつとして noi があるが、まずはセルマホ NOI に属するもうひとつのシマヴォ poi を説明する。
poi と ku'o のあいだには、ほかのブリディとおなじ構文をもつ完全なブリディがはいる。関係節のブリディのなかではセルマホ KOhA に属する代スムティ ke'a が使える。ke'a は関係節がつけられたスムティ(関係スムティと呼ぶ)を指す。話を進めるまえに例文を示す。
# note: relativized sumti を「関係スムティ」と訳した。用語として適切でないかもしれないが、「以降 ... と呼ぶ」という文脈で考えれば、この章内で一貫していれば良いとも考えられる1.2) ti poi ke'a prenu ku'o cu barda この人は大きい。
1.3) ti poi ke'a nazbi ku'o cu barda この鼻は大きい。
1.4) ti poi ke'a nazbi kapkevna ku'o cu barda これらの鼻の毛穴は大きい。
もちろん ke'a がはいる場所は関係節のブリディの x1 だけではない。x1 以外の場所でもいいし、関係節のブリディのサブブリディのなかにいれてもいい。さらにふたつの例文を示す。
1.5) tu poi le mlatu pu lacpu ke'a ku'o cu ratcu その猫がひきずっていたあれは鼠だ。
1.6) ta poi mi djica le nu mi ponse ke'a [kei] ku'o cu bloti 私の欲しいそれはボートだ。
例文 1.6では ke'a は関係節のなかの抽象化節にある(抽象化については11章参照)。
ほかのスムティとおなじく ke'a も省略できる。省略されているときはたいてい ke'a が x1 の場所にあるものと考えることができる。
1.7) ti poi nazbi cu barda この鼻は大きい。
はほぼ確実に例文 1.3とおなじ意味だ。ke'a はその場所が聞き手にとって明らかであれば x1 以外の場所にあっても省略できる。
1.8) tu poi le mlatu pu lacpu cu ratcu 猫が引きずっていたあれは鼠だ。
は例文 1.5とおなじ意味だ。まえに説明したように ku'o は省略可能な終端詞で、たいていは実際に省略可能である。この章の残りの部分を通して ku'o は本当に必要なとき以外は省略する。すると、例文 1.2は意味を変えずに
1.9) ti poi prenu cu barda その人は大きい。
のように書ける。
noi NOI 非限定関係節導入詞
関係節には基本的なふたつの種類がある。 poi ではじまる限定関係節と noi ではじまる非限定関係節である。限定関係節はスムティが指すものを決めるために必要な情報を提供する。それに対して、非限定関係節は聞き手の役には立つがスムティが指すものを決めるためには必要ではない追加の情報を提供する。第1節の例文はすべて限定関係節であり、関係節の情報は指すものを決めるために必要不可欠である。
# note: 「付随関係節」よりも、英語文法の学習の際にたたきこまれた「非限定用法」という言葉があるので、「非限定関係節」のほうがわかりやすいだろうと思われる以下の例文について考えてみよう。
2.1) le gerku poi blanu cu barda その青い犬は大きい。
2.2) le gerku noi blanu cu barda その犬、それは青いのだが、は大きい
例文 2.1では poi blanu で表される情報はどの犬を話題にするのかを決めるのに必要だ。この関係節があることで、候補となる犬がすべての犬から青い犬に限定される。だから poi 関係節は限定関係節と呼ばれる。それに対して、例文 2.2ではおそらくどの犬を話題とするのかはすでに明らかであり、関係節 noi blanu はその犬についての追加の情報を提供するだけだ(たとえ実際にはどの犬を話題にするのかが明らかではなかったとしても、ここでの関係節はそれをより明確にすることはできない)。
さらにいくつかの非限定関係節の例文を以下に示す。
2.3) mi noi jdice cu zvati 私、審判、がいる。
この例文では mi はすでに特定されている。私が審判であるというつけたしは聞き手により多くの情報を与えるためだけに提供されている。
2.4) xu do viska le mi karce noi bladi 私の車、それは白い車ですが、が見えますか。
例文 2.4では、話し手はたぶん一台しか車を持っていなくて、非限定的な情報としてそれが白いことを伝えたのだろう(あるいは le karce は複数でもよいので、その人は複数の車を持っていてもいい。その場合、非限定的な情報はそれらすべてが白いという意味になる)。限定関係節を使った例文 2.5と比較してみよう。
2.5) xu do viska le mi karce poi blabi 私の白いほうの車が見えますか。
ここでは、話し手はたぶん何台か車を持っているのだろう。そして、スムティ le mi karce の指すものを(そして結果として聞き手の注意を)白い車だけに限定している。例文 2.5は関係節を使っていない例文 2.6とだいたいおなじ意味である。
2.6) xu do viska le mi blabi karce 私の白い車が見えますか。
このように、描写につけられた限定関係節はしばしばタンルを含む描写とおなじ意味を表せる。しかし blabi karce はほかのタンルとおなじようにいくらか曖昧だ。タンルの原則にしたがえば、それは白いものを運ぶ車を指してもいいし、白-性と車-性を含むもっと複雑な意味を表してもいい。例文 2.5の限定関係節は白い車だけを指し、もっと複雑な拡張された意味を表すことはない。
pe GOI 限定関係 po GOI 限定所有 po'e GOI 限定固有所有 po'u GOI 限定同一 ne GOI 非限定関係 no'u GOI 非限定同一 ge'u GEhU 関係句終端詞
ロジバンにはよく使われる(セルブリを共有する)定型的な関係節があり、関係句という短い形で表すことができる。関係句はセルマホ GOI に属するシマヴォとそれに続くひとつのスムティから構成される。
pe の例文と関係節を使ったおなじ意味の例文を示す。
3.1) le stizu pe mi cu blanu 私の椅子は青い。
3.2) le stizu poi ke'a srana mi cu blanu 私と関係のある椅子は青い。
例文 3.1と例文 3.2では椅子と話し手の関係は弱い種類のものである。
# note: 関係というものの種類がその強さによっていくつかのグループに分けられて、そのなかで最も弱いグループを pe が表しているということpo の例文を示す。
3.3) le stizu po mi cu xunre その私と特別な関係にある椅子は赤い。
3.4) le stizu poi ke'a se steci srana mi cu xunre その私と特別な関係にある椅子は赤い。
例文 3.3、例文 3.4では例文 3.1、例文 3.2と比較して、椅子はより持続的に話し手にむすびつけられている。例文 3.1と例文 3.3の意味のちがいはたとえば以下のようなものである。ただし、これらは解釈の一例でありほかの解釈もありうる。つまり、pe mi は(話し手が所有していてもいなくても)今現在話し手が座っている椅子を示し、po mi は(話し手が現在座っていてもいなくても)話し手が所有する椅子を示す。
# note: 上の訳はだいぶましになったが、さらに流暢な日本語に意訳することこのように、po でつながれたふたつのスムティの関係はたいてい「所有」と呼ばれる。しかし、po が意味するのは法的な所有やその他の意味での所有だけではない。中心的な意味は特別(ロジバンでは steci)であるということだ。
# note: although は本来ならば譲歩であり「...にも関わらず」という意味であるが、より流暢な日本語とするために、「しかし、...」と訳したpo'e の例文と po のもうひとつの例文を示す。
3.5) le birka po'e mi cu spofu 私と生来的に特別の関係にある腕が壊れる。
3.6) le birka poi jinzi ke se steci srana mi cu spofu 私と生来的に特別の関係にある腕が壊れる。
3.7) le botpi po mi cu spofu 私と特別な関係にある瓶が壊れる。
例文 3.5と例文 3.6のふたつと、例文 3.7とはそれぞれふたつの種類の所有を対比している。そのふたつとは固有と外来である。不可譲と譲渡可能とも呼ばれる。何かが固有(不可譲)に所有されていると言えるのは所有物が所有者の一部であり、所有者を変化させずにそれを変えることができないときである。例文 3.5を見てみよう。人々は通常腕を固有に所有しているとされる。たとえ、腕が切り落とされたとしてもその腕はその人のものである(ただし、もし腕が移植されたとしたら、それは新しい使用者に固有に所有されていることになる。つまり、固有な所有とは程度の問題なのだ)。
それに対して、例文 3.7の瓶は誰かにあげたり、捨てたり、なくしたり、盗まれたりする可能性がある。だからそれは外来に所有されているということになる。固有と外来の境界は文化に依存している。独立宣言では人間の「不可譲な権利」がうたわれている。しかし、何がその権利であるのか、またはその考えかたが意味を持つのかどうかさえ、文化によって様々である。
例文 3.5は関係節を使わなくても表現できる。
3.8) le birka be mi cu spofu 私の腕が壊れる。
このように言えるのは、ギスム brika が腕が属する体を表す x2 の場所を持つからだ。このように、たいていにおいて、固有所有は po'e を使わないで、所有者を描写セルブリの適当な場所に置くことで表せる。
po'u の例文を示す。
3.9) le gerku po'u le mi pendo cu cinba mi 私の友達である犬が私にキスをする。
3.10) le gerku poi du le mi pendo cu cinba mi その[犬 = 私の友達]が私にキスをする。
シマヴォ po'u は所有ではなく同一を意味する(po'u は poi du を意味するのでその関係を示す形が選ばれた)。
# note: note that it meas "poi du" and its form was chosen to suggest the relationship を「... は ... を意味するのでその関係を示す形が選ばれた」としたが、もうすこしさりげない言いかたに直したい例文 3.9では po'u が使われていることで le gerku と le mi pendo がおなじものを指していることがわかる。例文 3.9と以下の例文とのちがいを見てみよう。
3.11) le mi pendo po'u le gerku cu cinba mi 犬である私の友達が私にキスをする。
これらは事実としてはおなじであるが状況に対する聞き手の知識はちがうかもしれない。例文 3.9では、聞き手はたぶん le gerku がどの犬を指すのかわからないのだろう。それで、話し手は彼の友達であるような特定の犬としてはっきりさせるために関係句をつける。
# note: but the listener's knowledge about the situation may not be を「状況に対する聞き手の知識はちがうかもしれない」と訳したが、「その場における聞き手の知識についてはちがいがある」と訳すか、もっと良い訳があるように思う。そもそも knowledge を知識と訳すのが固すぎる気がするが他に良い訳が見当たらない例文 3.11では、聞き手は話し手がどの友達を指しているのかがわからないのだろう。だから、その友達が犬であると特定している(どの犬であるかは明らかとされる)。おなじ対照の例文を示す。
# note: "which dog is taken to be obvious" の意味がはっきりしない。「その犬は明らかとされる」「どの犬であるかは明らかとされる」等の訳を試みた。ニュアンス的には「"that is the dog" によって指される犬は一意に決まる」といったところだろうか3.12) le tcadu po'u la nu,iork ニューヨークである街[他の街ではない]
3.13) la nu,iork po'u le tcadu 街であるニューヨーク[州やその他のニューヨークではない]
GOI に属するシマヴォには所有者と所有物を入れ換えられるという原則があるため、おかしな感じがする文を作ることができる。
# 訳注: pe や po が意味するのは関係があるということであって、それが所有と解釈される場合が多いというだけである。つまり、もともとは所有の意味は含まれていない。「関係がある」というだけの関係なので両辺は入れ換え可能となる。しかし、英語の of や日本語の「の」として解釈した場合にはすこし変な感じがするということだろう。3.14) le kabri pe le mi pendo cu cmalu その私の友達のコップは小さい。
3.15) le mi pendo pe le kabri cu cmalu そのコップの私の友達は小さい。
例文 3.14は「私の友達」がすでに話に出ていて、その人のコップが小さいと言うときに使える。それに対して、例文 3.15は、なんらかの「コップ」がさきに話に出ていて、そのうえでほかの友達から区別して「そのコップの私の友達」のことを話すときに使える。この表現だとコップが人間を「所有」しているみたいに見える。日本語ではこの関係を所有としては表現できない。「そのコップの私の友達」は意味をなさないように見える。しかしロジバンでは問題なくそう言える。
# note: in a context which is about my friend をどう訳すか。「私の友達という文脈」だと固い。「私の友達のことを話しているときに」等が良いかあるいはもっと意訳して「私の友達が既出のときに」等も考えられる最後に、シマヴォ ne と no'u があり、それぞれ pe と pe'u に対して、poi に対する noi に該当するものである。つまり、非限定的な情報を提供する。
3.16) le blabi gerku ne mi cu batci do 白い犬、それは私の犬なのだが、が君をかむ。
例文 3.16では、どの白い犬かは最初からわかっている(どの犬が自分をかんだかはだいたいわかるだろう)。その犬があなたのものだということは主ブリディの内容へのつけたしでしかない。
# note: after all, presumably ... を「当然 ... はずだ」と訳した。ちょっとニュアンスが違うが、感じとしては、「何だかんだいっても、結局のところどの犬が自分をかんだのかはだいたいわかるよね」といった感じだ思う。po'u と no'u の区別にはすこし微妙なところがある。人が何人かいる部屋を考えよう。そのなかの1人がジムという名前だ。もし君が彼らの名前を知らなければこう言える。
3.17) le nanmu no'u la djim. cu terpemci その人、ジム、は詩人だ。
ここで、私はそこにいる人のうちの1人が詩人であり、つけたしとしてその人の名前がジムであると言っている。もし君が彼らの名前を知っているならば、
3.18) le nanmu po'u la djim. cu terpemci そのジムという人は詩人だ。
と私は言うだろう。ここではその人の名前がジムであるということによって、話題としている人を特定している。
最後に、シマヴォ GOI の省略可能な終端詞はセルマホ GEhU に属する ge'u だが、必要とされることはまずない。しかし、論理的接続詞が関係句に修飾されたスムティの直後に続く場合、その論理的接続詞が関係句のスムティではなく修飾されたスムティに係るようにするために明示的な ge'u が必要となる(セルマホ GOI の名前のもととなったシマヴォはどうなったか。これは第7章で議論される。他の種類の関係句と文法的にはおなじでも、意味論的には別種だからだ)。
# note: 最後の()内はシマヴォ goi が意味論的には関係句ではないということを言っている。よりわかりやすく意訳する必要があるzi'e ZIhE 関係節結合詞
複数の関係節をひとつのスムティにつけることが必要かまたは役に立つことがある。ロジバンではそのためにセルマホ ZIhE に属するシマヴォ zi'e を使う。zi'e は複数の関係節をひとまとまりにすることで、おなじひとつのスムティにかかるようにする。たとえば、
# note: one or more ということで「ひとつ以上の」であるが、ひとつの関係節をまとめるというのはおかしいので、one or more ではなく more than one が正しいと思われる。よって more than one であると考えて「複数の」と訳した4.1) le gerku poi blabi zi'e poi batci le nanmu cu klama その白くて人をかむ犬が行く。
zi'e は英語ではよく and と訳されるが、本当の論理的接続詞ではない。論理的接続詞(第14章参照)のほとんどが文同士の論理的接続に換えられるが、zi'e では換えられない。
種類のちがう関係節同士を zi'e でつなぐことができる。
4.2) le gerku poi blabi zi'e noi le mi pendo cu ponse ke'a cu klama 白い犬、それは私の友達の犬だが、が行く。
例文 4.2では、限定節 poi blabi は問題となる犬を決めるが、非限定節 noi le mi pendo cu ponse はつけたしである。聞き手は poi blabi だけでどの犬かわかるということになる。もちろん、非限定節を先にしても、強調については変わるにしても、意味は変わらない。
# note: though not necessarily the emphasis を「強調については変わるにしても」と訳したが関係句同士または、関係句と関係節も zi'e でつなぐことができる。
4.3) le botpi po mi zi'e poi blanu cu spofu 私の青い瓶が壊れる。
ちなみに、例文 4.3の意訳が「私の瓶、それは青いのだが、が壊れる。」であったならば、ロジバンのほうでは poi ではなく noi を使う。この場合、瓶が青いということは瓶を決めるのに必要ないからだ。例文 4.3はたぶん複数ある瓶のなかから、話題となる青い瓶を選び出す必要があるということだ。
4.4) mi ba zutse le stizu pe mi zi'e po do zi'e poi xunre 私は赤い本当はあなたの物である私の椅子に座るだろう。
例文 4.4は、ふたつより多くの関係句または節が zi'e でつなげられることを示している。この例文はほとんど意訳できない。椅子を一時的に私と関係づける pe mi と椅子をより持続的にあなたに関係づける po do とを日本語では区別できないからだ(もしかすると、私はあなたの家に招待されたのかもしれない。それならばその椅子は必然的にあなたの所有物ということになる)。
もうひとつ例文を示す。ひとつの関係句とふたつの関係節とが、そして限定と非限定とがまとめられている。
4.5) mi ba citka le dembi pe mi zi'e poi cpana le mi palta zi'e noi do dunda ke'a mi 私は皿の上の私の豆を食べるだろう、それはあなたがくれたもの だ。
voi NOI 非真実関係節導入詞
セルマホ NOI には三種類目の関係節を導くもうひとつのシマヴォ voi がある。voi に導かれる関係節は poi に導かれるものとおなじく限定的である。しかし、poi 関係節と voi 関係節には基本的なちがいがある。poi 関係節は lo や loi とおなじ意味で真実として発言されている。そのブリディは実際に事実として解釈しなければならない。たとえば、
# note: 「三種類目」というのがどうにも美しくないのだが、しかし third kind of はそう訳すしかないかな5.1) le gerku poi blabi cu klama 白い犬が行く。
犬が白いのは実際に事実でなければならず、そうでなければこの文はまちがいとなる。白い犬と茶色い犬とがいるときに話し手が茶色い犬を示すのに le gerku poi blabi を使ったら、聞き手は正しく理解することができないだろう。しかし、
# note: miscommunication のニュアンスを訳文に出すのが難しい。「誤まった伝達」や「うまく伝わらない」といった感じなのだろうと思うが5.2) le gerku voi blabi cu klama 私が白い犬として描写する犬が行く。
は問題の犬が実際には、白であるという(それが何であれ)客観的な基準に合わないかもしれないということに聞き手の注意をうながす。話し手だけがその表現で何を意味しているのかを正確に言うことができる。このように、voi は le のように話し手の意図によって意味が決まる。
だから以下のふたつの文は、
5.3) le nanmu cu ninmu その男は女だ。
5.4) ti voi nanmu cu ninmu 男であるこの人は女だ。
基本的におなじことを意味する(ただし、例文 5.5は ti による指示を含むが、例文 5.4は含まない)。どちらにも矛盾はない。(聞き手を混乱させるかもしれないが)たとえ実際には女であったとしても、その人を男として描写することにまったく問題はない。
いろいろな関係節と関係句を説明してきたが、すべてそろったので、この章の残りの部分では関係節を含むスムティの文法について説明する。ここまで、関係節は被修飾スムティのすぐうしろに置かれていた。これがもとからある普通の使いかただが、関係節をほかの位置に置くこともでき、それにより意味が変わる場合がある。
# note: So far, this chapter の部分は訳出しないことにした関係節が描写スムティを修飾する場合、その位置は、描写型の冠詞(le, lo など)のあと、うめこまれたセルブリのあとでかつ省略可能な終端詞(つまり ku)のまえ、そして ku のあと、の3ヶ所である。これまでに見てきた描写スムティを修飾する関係節は2番目の位置に置かれていることになる。だから、例文 5.1は、省略可能な終端詞をすべて略さないで書くと次のようになる。
# note: 英語の "actually" のニュアンスは日本語では伝えにくい。ここでは前の段落でおおまかに言ったことについて「具体的に言うと」といった意味になるだろうか。「他の位置もある」を受けて「その位置というものは実のところ」といった感じ。訳出しないことにした6.1) le gerku poi blabi ku'o ku cu klama vau その白い犬は行く。
ここで、ku'o は poi と対になる終端詞であり、ku は le、そして vau はブリディ全体の終端詞である。
関係節が le gerku などの le による単純な描写を修飾する場合、どこに関係節が置かれるかは表現や強調の問題でしかない。だから、以下の例文はすべて例文 6.1とおなじ意味である。
6.2) le poi blabi ku'o gerku cu klama その白い犬が行く。
6.3) le gerku ku poi blabi cu klama その白い犬が行く。
例文 6.1は関係節が修飾される名詞句のあとに置かれる英語などの言語の話者にとって自然に感じられる。それに対して、例文 6.2は関係節を修飾される名詞句のまえに置くフィンランド語や中国語の話者にとってより自然に感じられるだろう。例文 6.2では、省略可能な終端詞 ku'o を明示する必要があることに注意しよう。そうしないと、関係節のセルブリ(blabi)は描写のセルブリ(gerku)とくっついてしまい、文法的に正しくない文になってしまう。例文 6.3の形についてはあとで説明する。
# note: "The purpose of the form appearing in Example 6.3 will be apparent shortly." の意味は「例文6.3で使われている形式の使い道はあとで示す」といったところだが、英語のニュアンスを残しながら、流暢な日本語に直すのが難しい。より意訳的な訳に直すときに適切な日本語を模索すること。いずれにしても、例文6.1、6.2 と来て、6.3 についてはあとに回すよ、といった意味なので、さらりと訳してしまったほうが良いかもしれないと思い、単に「例文6.3についてはこのあと説明する」とだけ訳した。詳しくは第6章で説明するが、描写は内部数量詞と外部数量詞で修飾することができる。内部数量詞は描写がいくつのものを指すのかを決めるもので、描写型の冠詞と描写セルブリのあいだに置く。外部数量詞は描写型の冠詞のまえに置き、描写によって指されるもののうちのいくつがそのブリディの対象になるのかを示す。以下の例文では、
# note: attach を「つける」と訳すとやや舌足らずな感じがするので、より意味を明確にして「修飾する」と訳した6.4) re le mu prenu cu klama le zarci その5人の人のうちの2人がその店に行く。
mu が内部数量詞で re が外部数量詞である。この例文でスムティ re le mu prenu に関係節をつけるとどうなるだろうか。例として関係節 poi ninmu (女性である)をつけてみよう。この場合には関係節が3つの位置のうちのどこに置かれるかで意味が変わってくる。
# note: ここでは attach をそのまま「つける」と訳す6.5) re le poi ninmu ku'o mu prenu cu klama le zarci その5人の人のうちの2人の女性が店に行く。
6.6) re le mu prenu poi ninmu [ku] cu klama le zarci その5人の女性のうちの2人が店に行く。
6.7) re le mu prenu ku poi ninmu cu klama le zarci その5人の人のうちの2人の女性が店に行く。
例文 6.6は5人すべてが女性であることを示す。それに対して、例文 6.7は店に行った2人が女性であることを示す。どっちがどっちかをどう覚えたらいいだろうか。例文 6.7のように関係節が ku のあとにあるとき、スムティは全体として関係節に修飾される。ku がないかまたは ku のまえに関係節があるとき、関係節はスムティを構成するセルブリが指すものすべてを修飾する。
# note: explicit "ku" を「明示的な ku」と訳したが、explicit はもっと軽く訳するか、または訳出しなくてもよいかもしれない例文 6.5はどうだろう。これは慣用として例文 6.7とおなじ意味を表す。この場合、ku は省略できるがたいていは ku'o が必要となる。関係節が内部数量詞よりまえにあることに注意しよう。
# 訳注: これは、poi ... が前にかかるのだから、"re le" を修飾していると考えると覚えやすいかもしれない第6章にあるように、le による描写において外部数量詞が明示されていないとき、そのスムティの外部数量詞は ro (すべて)であるとして解釈される。だから、le gerku は「私が犬として示すもののうちのすべて」(場合によっては「ひとつのうちのすべて」)を意味する。この場合には関係節が ku のあとでもまえでもかわらない。しかし、lo による描写ではそのちがいは大きい。
# note: ここらへんの話題は xorlo 前後で変化していると思われる。たしか暗黙の数量詞というものは考えなくなったのではなかったか。訳が一応完成した段階できちんと調べて訳注にすること6.8) lo prenu ku noi blabi cu klama le zarci 何人かの人、その人たちは白いのだが、が店に行く。
6.9) lo prenu noi blabi [ku] cu klama le zarci 何人かの人、人というものは白いものだが、が店に行く。
例文 6.8と例文 6.9はどちらもひとり以上の人が店に行くと言っている。しかし、それらの関係節の内容には大きな違いがある。lo prenu noi blabi の意味を考えてみよう。デフォルトの内部数量詞は ro (すべて)であり、外部数量詞は su'o (すくなくともひとつ)である。まずはすべての人をとりあげて、そしてそこからすくなくともひとりが選ばれる。ブリディ全体の意味としてはひとり以上の人が行くということになる。
# note: claim のいい訳が見つからない。「主張」と訳しているが、もっとこなれた訳はないだろうか。「非限定関係節の内容には」と訳そうか。あるいは「関係節の内容には」と訳すか例文 6.8では、関係節は外部数量詞が係ったあとにそのスムティを修飾する。つまり、ひとり以上の人、その人たちは白いのだが、が行っている。しかし、例文 6.9では、関係節は外部数量詞が係るまえにそのスムティを修飾する。「まずすべての人をとりあげる。ところで、彼らはみな白いのだが」ということになる。すべての人間が白いわけではないので、この関係節の内容は誤りとなる。
# note: once を「したあとに」と訳した。本来は「するとすぐに」等の意味このように、noi 関係節を lo による描写につけるときにはいつも ku を使うことにしたほうが安全である。そうしないと言いすぎることになるかもしれない。
# note: end up claiming far too much 「はるかに多く主張しすぎる」つまり、あるもののいくつかのものについて言おうとしているのに、そのもののすべてについて言っていることになってしまうということ。もっとちゃんとした日本語に意訳することla に続くセルブリは名前として使われるので、関係節の位置のちがいによる影響も変わってくる。ku のなかにある関係節はセルブリのまえでもあとでも名前の一部となるが、ku の外にある関係節はそうではない。だから、
6.10) mi viska la nanmu poi terpa le ke'a xirma [ku] 私は「自分の馬を恐れる男」さんを見る。
では、話し手はその名前の人を見ているのであり、その人は馬を恐れているとは限らない。しかし、
6.11) mi viska la nanmu ku poi terpa le ke'a xirma 私は自分の馬を恐れる「男」さんを見る。
は「男」という名前で自分の馬を恐れている人(たち)を見るということを示す。
note: namely は「すなわち」ということで、おそらくその前後でおなじものを指しているということを明示しているのだろうと思う最後に、re lo karce (つまり re lo ro karce)とほぼおなじ意味の re karce のようないわゆる不定スムティにも関係節をつけられる。この場合、ku の外側の位置として解釈される。例文を挙げる。
# 訳注: 不定スムティとは lo を省略した描写スムティのこと。数量詞 + スムティ のような形となる。第6章第8節参照6.12) mi ponse re karce [ku] poi xekri 私はふたつの黒い車を持っている。
限定関係節はすべての車にではなく、主ブリディに関係するふたつの車にだけ係る。関係節を不定スムティの内部(つまり明示的な終端詞 ku の前)に置くのは文法的に正しくない。代わりに明示的な lo を使う。
# note: re lo karce poi xekri ku と re lo kauce ku poi xekri との意味の違い。前者では黒い車のうちの2台であり、後者は車のうちの2台を取り出す際に黒いという条件がつくということか。結果としてはおなじことであると考えて良いのか、それとも何らかの意味の差異は残るのか例文 2.4から例文 2.6までの例文のなかで「私の車」と意訳されているスムティ le mi karce が使われている。そうは見えないかもしれないが、このスムティのなかには関係句がある。スムティが描写型の冠詞と描写セルブリのあいだにあるとき、そのスムティは pe 関係句となる。だから、
7.1) le mi karce cu xunre 私の車は赤い。
と
7.2) le pe mi karce cu xunre 私の車は赤い。
はまったくおなじ意味だ。さらに、ここでは数量詞についてとくに考える必要がないので、
# note: no special considerations を「とくに考える必要がない」と訳した7.3) le karce pe mi cu xunre 私の車は赤い。
もまたおなじ意味である。例文 7.1にあるようなスムティを「所有スムティ」と呼ぶ。これは「持ち主である」という意味での所有を意味するのではなく、pe 関係句に見るように、弱い関係を示すだけである。一晩それを借りただけでも le mi karce と言える(日本語では「私の車」は普通 le karce po mi を意味する。しかし、「バスの私の席」は別の意味での所有である。ロジバンでは弱いほうの意味を標準とした)。そういうわけで、例文 7.1のスムティのなかのスムティを「所有スムティ」と呼ぶのは妥当だろう。
# note: ownership と possession の訳しわけが難しい。「「持ち主である」」と「所有」としてはおいたが歴史的に所有スムティは関係句(節)よりも先にあった。そしてここまで説明してきたような関係句や関係節の機能が作りあげられていくなかでも存在し続けた。例文 7.2のタイプの前置関係節が考案されたときに、所有スムティはその特殊なケースであると見なされるようになった。
# note: 上記は固いが英文中に含まれるニュアンスをすべて反映しようとすると上の訳文のようになってしまう。次回の見直しでは、より意訳的な訳とするどんなスムティでも本格的な関係句のなかになら置くことができる。しかし、pe を使わない所有スムティとなれるのは単純なスムティだけである。おおまかには、所有スムティとして正しいのは、代スムティ、引用、名前、描写、数である。また、所有スムティのまえに数量詞をつけてはならない。そうしてしまうと、あまり使われない「描写型の冠詞 + 数量詞 + スムティ」という形の描写として解釈されてしまう。この形のスムティは第6章に詳しい。
# note: full fledged は「羽毛のはえそろった」から「本格的な」所有スムティとして描写を使う例を示す。
# note: Here is an example of ... を「... の例文を示す」で統一しよう7.4) le le nanmu ku karce cu blanu その人の車は青い。
所有スムティのおわりの明示的な ku に注意しよう。それがないと、所有スムティは外側の描写スムティのセルブリとくっついてしまう。ku が必要なため、描写は所有スムティとしてはあまり使われず、普通の関係句として使われることが多い。所有スムティとしてよく使われるのは終端詞を必要としない代スムティであり、なかでも人称代スムティが使われることが多い。
# note: 上の文章は段落全体として、意訳してしまったほうがいいだろう所有スムティとして数を使う例を示す。
7.5) le li mu jdice se bende 審査員5番
これは「5番目の審査員」とはすこしちがう。この場合、審査員と数5とが何らかの弱い関係にあることを示しているにすぎない。
# note: juror を「審査員」と訳したが「陪審員」とした方が良いのかもしれない。すくなくとも、ロジバンの jdice は「決める人」であり、もっと意味が広い所有スムティには関係節をつけることができる。ここでは、所有スムティのすぐうしろの関係節が外側のスムティにではなく所有スムティに係ることだけ知っていれば十分だ。たとえば、
# note: if it were not for ... で、「もし ... がなかったら」7.6) le mi noi sipna vau karce cu na klama 寝ている私の車が行かない。# 訳注: つまり、le noi sipna vau karce のような描写に所有スムティをつけるときには気をつけなければならないということだ
は私の車は行かないという意味であるが、noi sipna は私の車にではなく私に係る。もしも、(意味はよくわからないが)車が寝ていると言いたければ、以下のようにしなければならない。
# note: ... applies to me, not my car, however. は ... applies to me, but my car と解釈して良いのだろうか。つまり not ..., however を but ... と考えて良いのか7.7) le mi karce poi sipna cu na klama 私の寝ている車が行かない。
ちなみに、例文 7.6では関係節のおわりに vau を使った。vau は単純なブリディの終端詞で、だいたいにおいて省略可能である。ここでは ku'o も使えるが、vau のほうが音節が短い。
vu'o VUhO 関係節付着詞# note: attacher を「付着詞」と訳した。joiner の「結合詞」もそうだが今のところコンセンサスの取れた訳ではない
ふつうは関係節は単純なスムティかスムティの一部につけられる。つまり、代スムティ、名前、描写、純粋な数、引用である。純粋な数に関係節をつけた例文を示す。
# note: pure number とは何を指すか。とりあえず「純粋な数」と訳しはしたが。逆に pure でない number とは何か8.1) li pai noi na'e frinu namcu 無理数パイ
また、引用に非限定関係節をつけた例文を示す。
8.2) lu mi klama le zarci li'u noi mi cusku ke'a cu jufra 「私はその店に行く」とは私が言ったのだが、これは文である。
これは引用の発話者やそれ以外の関連する補足的な事実を示すのに役立つ。このような関係節は単純なスムティのうしろにしか置けない。
# note: author of the quotation を「引用の発話者」としたが、より良い訳はないか。「話者」「言い手」「書き手」等も考えられるが。さらに、セルマホ LAhE や NAhE+BO といったスムティ限定詞(第6章参照)のつけられたスムティにも限定詞と被限定スムティのあいだに関係節をつけることができる。以下に例を示す。
# note: qulifier を「限定詞」、qualified を「被限定」と訳した。しかし、LAhE や NAhE+BO を何詞と呼ぶべきかという問題や、qualifier と modifier の使い分けについて考える必要がある8.3) la'e poi tolcitno vau lu le xunre cmaxirma li'u cu zvati le vu kumfa 古い「赤い小馬」があそこの部屋にある。
例文 8.3はちょっと複雑なので、すこし細かく見ていこう。"lu le xunre cmaxirma li'u" は「赤い小馬」という単語の並びを指す。例文 8.3で la'e がないと並んだ単語が遠くの部屋にあるという意味になってしまう。しかし、並んだ単語が部屋のなかにあるなんてありえない。la'e があるので、このスムティは単語の並びそのものではなく、その単語の並びが指し示すもの、つまりジョーン・スタインベックの小説(たぶんロジバン語訳)を指すことになる。その「赤い小馬」のうちの一冊が限定関係節によって特定される。例文 8.3は以下とまったくおなじ意味だ。
# note: need some picking apart を「ばらす必要がある」と訳した。「分解する」とかそういった意味だが、よりくどく意訳するならば、「細かく分けて、ひとつひとつ、説明する必要がある」等になると思われる。あるいは「ばらばらにして見ていこう」あたりがすっきりしてきれいな訳かも。または some を「すこし」と訳して「すこし細かく見ていこう」が日本語として自然かもしれない。ただ bit を「すこし」と訳したので重なってしまう。bit を「やや」と訳せば良いかもしれない。bit を「ちょっと」と訳すのは、もともと bit を副詞的に使うのが口語的な表現であることを考えても適している気がする。「ちょっと」と「すこし」の重なりもやや気になるがとりあえずこれでいこう8.4) la'e lu le xunre cmaxirma li'u lu'u poi to'ercitno cu zvati le vu kumfa 古い「赤い小馬」があそこの部屋にある。
ふたつの文の違いは文体だけと言える。lu'u 終端詞が必要であることに気をつけよう。これがないと、関係節が引用自体に係ってしまう。引用が古いと言いたいわけではないのだ。
# note: the two sentence can be considered stylistic variants は意味はわかるのだが日本語に訳しにくい。ふたつの文が形のうえでの違いでありスタイルの違いにすぎないということだここで、関係節が複雑なスムティの全体を修飾する必要がある場合について考えてみよう。論理的または非論理的接続を含むスムティである(Chapter 14参照)。次の例を見てみよう。
# note: however はこの場合、日本語の「しかし」と訳すのは適切ではないように思う。「今までは単純なスムティについて話してきたが」というニュアンスがあるのだろうが、ここでは「一方」という意味で訳しておいたほうが良いかも。とりあえずは「ここで、...について考えてみよう」と訳しておいたが8.5) la frank. .e la djordj. noi nanmu cu klama le zdani フランクとジョージ、彼は男だが、はその家に行く。
例文 8.5はフランクとジョージの両方が男であるという意味にはならず、ジョージが男であるというだけの意味となる。非限定関係節が直前の単純なスムティ la djordj にだけ係るからだ。
# note: incidental claim を「非限定的な説明」としたが、訳としては不正確だが、「非限定関係節」やあるいは単に「関係節」と訳しても良いように思う。特に incidental と言う意味はここではあまりない気がする。というよりむしろ incidental claim 自体を訳出しなくても良い気がする例文 8.5で、論理接続されたスムティの両方に関係節が係るようにするには、セルマホ VUhO に属するシマヴォ vu'o を使う。vu'o はスムティと関係節のあいだに置かれ、関係節が論理的または非論理的接続を含むスムティ全体に係るようにする。
# note: 上訳はこなれていない、より意訳的に訳する必要がある8.6) la frank. .e la djordj. vu'o noi nanmu cu klama le zdani フランクとジョージ、彼らは男だが、は家へ行く。
うえの例文では vu'o があるので関係節 noi nanmu は論理接続されたスムティ la frank. .e la djordj. 全体に係る。訳のようにフランクとジョージの両方が男であることを表している。
詳しくは第6章で説明するが、呼応句によって文や談話が誰に対して話されているか、誰を聞き手とするかを示すことができる。おおまかにわけて3つの形があるが、どれもセルマホ COI または DOI (これらは呼応語と呼ばれ、ひとつでも複数でもいい)で始まり、名前、セルブリ、またはスムティが続く。以下に3つの例文を挙げる。
# note: sentence or discourse を「文や談話」と訳したが、or discourse と言っている理由は .i で区切られる sentence よりも広い範囲についての話をするためと思われる。「文や話が」と訳すべきか。あるいは単に「話が」としても良いとは思うが9.1) coi. frank. こんにちは、フランク。
9.2) co'o xirma さようなら、馬。
9.3) fi'i la frank. .e la djordj. ようこそ、フランクとジョージ。
例文 9.2で別れを告げているものが実際には馬ではないかもしれないということに注意してほしい。話し手が馬だと思っているだけのものかもしれないし、もっと言えば「馬」という名前の何か(たとえば人)かもしれない。つまり、例文 9.2には"co'o le xirma" と "co'o la xirma" とのあいだでの曖昧さがあるということだ。これは比較的問題のない意味論的な曖昧さである。なぜなら名前というもの全般に曖昧さがあるからだ。たとえば「ジョージ」と言った場合、たくさんいるジョージのそれぞれを区別することはできないだろう。
# note: in a sense を「つまり」と訳してみた。本当は「ある意味」という意味なのかもしれないが「ある意味」が何を意味するのか、よく考えてみるとよくわからないところがある。何らかの譲歩なのだろうけど同様に例文 9.1は以下の例文の省略形と考えることができる。
9.4) coi la frank. こんにちは、フランク(という名前の人)。
文法的には、呼応句は自由修飾句のひとつであり、ロジバンの文章のいろいろな場所に置くことができるが、たいていは完全な構造の最初か最後に置かれる。あるいは、例文 9.1から例文 9.3までのようにそれだけで文となる。
# note: some complete construct を「完全な構造」と訳したが、何を指すのかはよくわからない。some とついていることだし、何となく曖昧な意味で意っているのかもしれない呼応句は形がスムティに似ているのがわかるだろう。呼応句はスムティとおなじようにいろいろな場所に関係節を置くことができる。(呼応語に続く)単純な名前であるような呼応句のなかでは関係節はその名前の直後に置く必要がある。
# note: as can be seen を「...のがわかるだろう」と訳してみた9.5) coi. frank. poi xunre se bende こんにちは、赤チームのフランク。
例文 9.5では、限定関係節が話し手が挨拶しているフランクとは区別しなければならない(たとえば緑チーム所属の)別のフランクがいることを暗に示している。
セルブリを含む呼応句は関係節をまえにもあとにも置くことができ、どちらでもおなじ意味になる。以下に例文を示す。
9.6) co'o poi mi zvati ke'a ku'o xirma さようなら、私のところの馬。
9.7) co'o xirma poi mi zvati さようなら、私のところの馬。# note: 例文9.6, 9.7 の訳は直す必要がある。「私が乗っている馬」として良いだろうか
例文 9.6と例文 9.7の意味はおなじである。さらに、関係節はまえとうしろの両方に置くことができる。
# note: in fact をとりあえずは「さらに」と訳しておいた関係節のブリディのなかのスムティを別の関係節で修飾することができるということは、だいたいにおいてわかりやすい。
10.1) le prenu poi zvati le kumfa poi blanu cu masno その青い部屋にいる人は遅い。
しかし、関係節のなかの関係節のなかで "ke'a" が使われている場合には(今の読者の知識では)2通りの解釈が可能となる。"ke'a" が外側のスムティを指すのか、あるいは、内側の関係節が係る外側の関係節内のスムティを指すのか。答えは後者である。前者を指すには添字つきの "ke'a" を使う。
# note: an ambiguity can exist を「曖昧さが生じうる」と訳すと、 lojban のなかで曖昧さが生じるようなニュアンスになってしまう。あくまでも、以下の説明をする前の読者にとっての曖昧さであり、その説明なしでは複数の解釈をしてしまう可能性がある、といった意味。そこらへんのニュアンスをどう訳出するか。ここは次回の見直しの際に段落全体の構造を変えて意訳したほうが良いだろう10.2) le prenu poi zvati le kumfa poi ke'axire zbasu ke'a cu masno その人が作った部屋にいるその人は遅い。
ここで、ke'axire つまり「それ-2」はもっとも内側から数えて2番目の関係節がつけられたスムティである。だから、"ke'axipa" (それ-1)は "ke'a" とおなじ意味である。
代わりに、冠頭(詳しくは16章で説明する)を使うこともできる。文法的には、スムティを列挙したあとに "zo'u" を続けたものであり、関係節のブリディの前につける。
10.3) le prenu poi ke'a goi ko'a zo'u ko'a zvati le kumfa poi ke'a goi ko'e zo'u ko'a zbasu ko'e cu masno その人(その人をそれ1とする:それ1はその部屋にいる(その部屋 をそれ2とする:それ1はそれ2を作った)は遅い。# note: 底本では le prenu poi ke'a goi ko'a zo'u ko'a zvati le kumfa poi ke'a goi ko'e zo'u ko'a zbasu ke'a cu masno だが、これだと趣旨がおかしくなるので、"ke'a" -> "ko'e" とした。最新版でも修正されていない
例文 10.3は例文 10.2より長いが、よりわかりやすいかもしれない。それぞれのレベルのふたつの "ke'a" シマヴォを書き出して、それらを代入可能なシマヴォ "ko'a" と "ko'e"(第6章で説明する)に明示的に代入しているからだ。
# note: assignable を「代入可能な」と訳したが「代入用の」と訳したほうがこなれているかもしれない関係節導入詞(セルマホ NOI)
noi 非限定節 poi 限定節 voi 限定節(非真実)
関係句導入詞(セルマホ GOI):
goi 代スムティ代入 pe 限定関係 ne 非限定関係 po 外来(譲渡可能)所有 po'e 固有(不可譲)所有 po'u 限定同一 no'u 非限定同一
関係代スムティ(セルマホ KOhA):
ke'a 関係スムティの代スムティ# note: pro-sumti for relativized sumti をどう訳すか
関係節結合詞(セルマホ ZIhE):
zi'e 関係節をまとめてひとつのスムティに係るようにする# note: joins relative clauses applying to a single sumti
関係節連結詞(セルマホ VUhO)
vu'o 関係節が複雑なスムティの全体に係るようにする# note: causes relative clauses to apply to all of a complex sumti
省略可能な終端詞(それぞれのセルマホ)
ku'o 関係節の省略可能な終端詞 ge'u 関係句の省略可能な終端詞# possetion と ownership との訳し分けが難しい。