[Cartoon]
# 27% くらい翻訳
# 現在のところ下書きの訳である
# 誤りや不明瞭な箇所多々あると思われる
# 訳の見直しの一回目が終わったので訳の見直しの二回目に入る
# todo 2: 2回目の訳の見直し
# note: 今回の見直しでは段落レベルで意味を取って意訳していくことにする
# todo 3: 3回目の訳の見直し
# note: この回の見直しでは個別の note を check し、note の内容を解決し、消せる note を消し、また訳注として残すべき note を決定する。また、思いついた訳注の下書きを追加する。解決できない訳注については次の回の見直しに残す。また全体の note も次の回の見直しに残す
# todo 4: 4回目の訳の見直し
# note: この回の見直しでは節レベルで意味を取って意訳していく
# note: ひとつ、ふたつ、みっつ、と平仮名で書くか、1つ、2つ、3つと書くか、決めて統一すること
# note: 英語やロジバンを書くときに "" でくくるかくくらないか決めて統一すること -> "" でくくらないことにする
# note: (...は第...章で詳しく説明する)を(...については第...章参照)とする
# note: the link between the chair and the speaker is of the loosest kind. のうまい訳が見つからない
# note: 「違い」よりも「ちがい」のほうがよいかもしれない
# note: 「同じ」よりも「おなじ」のほうがよいかもしれない
# note: attached や modified 等あるが、「被修飾スムティ」で統一してしまおうかな
# note: 「表す」と「示す」の使いわけがいまいち曖昧なところがある。統一するか明確な基準で訳し分けるべきだろう。「指す」も。
# note: 「第...章で説明するように」や「第...章で説明したように」だと章の番号により別々の表現を使わざるを得ない感じがある。ので、「第...章にあるように」を使うのはどうか
# note: 「以下に例を示す」と「以下に例文を示す」とがあるがどちらかに統一しよう。前者のほうがすっきりしていて良いように思う
# note: note that ... を「... に注意しよう」と訳すか、「... に気をつけよう」と訳すか
# note: 「関係句」と「関係節」の訳しわけについて。とくに節のタイトルについて

CLL 第8章 関係節: スムティをさらに複雑にする

0. 目次

  1. 何を指しているの
  2. 非限定関係節
  3. 関係句
  4. 複数の関係節: zi'e
  5. 非真実関係節 : voi
  6. 関係節と描写
  7. 所有スムティ
  8. 関係節と複雑なスムティ: vu'o
  9. 呼応句のなかの関係句
  10. 関係節のなかの関係節
  11. 関係節のシマヴォの索引

1. 何を指しているの

以下のシマヴォをこの節で説明する。
poi	NOI	限定関係節導入詞
ke'a	GOhA	関係代スムティ
ku'o	KUhO	関係節終端詞

誰かが何かを指しているときに、何を指しているのかという問題について考えてみよう。ロジバンでは、代スムティ ti を使って近くのものを、 ta を使ってすこし離れたものを、tu を使って遠くのものを指すことができる(代スムティについては第7章参照)。

しかし、指(あるいは唇など文化によってさまざまだが)で指したとしても、何を指しているかを正確には言えないことがある。誰かが目のまえの人を指してこう言ったとする。

# 訳注: フィリピンでは唇で人や物を指す
1.1) ti cu barda
     これ(ら)は大きい。

ti は何を指すのだろうか。その人だろうか。もしかするとその人の鼻かもしれない。あるいは、ti には複数、単数の区別がなく「これら」と「これ」の両方を表せるので、その人の鼻の毛穴を指すのかもしれない。

この問題を解決するために、ロジバンでは「関係節」という構文を使う。関係節はたいていスムティのうしろに置くが、この章のあとのほうで説明するように、関係節が置けるのはそこだけではない。関係節はセルマホ NOI に属する語で始まり、セルマホ KUhOに属する省略可能な終端詞 ku'o でおわる。おわかりのようにセルマホ NOI のシマヴォのひとつとして noi があるが、まずはセルマホ NOI に属するもうひとつのシマヴォ poi を説明する。

poi と ku'o のあいだには、ほかのブリディとおなじ構文をもつ完全なブリディがはいる。関係節のブリディのなかではセルマホ KOhA に属する代スムティ ke'a が使える。ke'a は関係節がつけられたスムティ(関係スムティと呼ぶ)を指す。話を進めるまえに例文を示す。

# note: relativized sumti を「関係スムティ」と訳した。用語として適切でないかもしれないが、「以降 ... と呼ぶ」という文脈で考えれば、この章内で一貫していれば良いとも考えられる
1.2) ti poi ke'a prenu ku'o cu barda
     この人は大きい。
1.3) ti poi ke'a nazbi ku'o cu barda
     この鼻は大きい。
1.4) ti poi ke'a nazbi kapkevna ku'o cu barda
     これらの鼻の毛穴は大きい。

もちろん ke'a がはいる場所は関係節のブリディの x1 だけではない。x1 以外の場所でもいいし、関係節のブリディのサブブリディのなかにいれてもいい。さらにふたつの例文を示す。

1.5) tu poi le mlatu pu lacpu ke'a ku'o cu ratcu
     その猫がひきずっていたあれは鼠だ。
1.6) ta poi mi djica le nu mi ponse ke'a [kei]
ku'o cu bloti
     私の欲しいそれはボートだ。

例文 1.6では ke'a は関係節のなかの抽象化節にある(抽象化については11章参照)。

ほかのスムティとおなじく ke'a も省略できる。省略されているときはたいてい ke'a が x1 の場所にあるものと考えることができる。

1.7) ti poi nazbi cu barda
     この鼻は大きい。

はほぼ確実に例文 1.3とおなじ意味だ。ke'a はその場所が聞き手にとって明らかであれば x1 以外の場所にあっても省略できる。

1.8) tu poi le mlatu pu lacpu cu ratcu
     猫が引きずっていたあれは鼠だ。

例文 1.5とおなじ意味だ。まえに説明したように ku'o は省略可能な終端詞で、たいていは実際に省略可能である。この章の残りの部分を通して ku'o は本当に必要なとき以外は省略する。すると、例文 1.2は意味を変えずに

1.9) ti poi prenu cu barda
     その人は大きい。

のように書ける。

2. 非限定関係節

以下のシマヴォをこの節で説明する。
noi	NOI	非限定関係節導入詞

関係節には基本的なふたつの種類がある。 poi ではじまる限定関係節と noi ではじまる非限定関係節である。限定関係節はスムティが指すものを決めるために必要な情報を提供する。それに対して、非限定関係節は聞き手の役には立つがスムティが指すものを決めるためには必要ではない追加の情報を提供する。第1節の例文はすべて限定関係節であり、関係節の情報は指すものを決めるために必要不可欠である。

# note: 「付随関係節」よりも、英語文法の学習の際にたたきこまれた「非限定用法」という言葉があるので、「非限定関係節」のほうがわかりやすいだろうと思われる

以下の例文について考えてみよう。

2.1) le gerku poi blanu cu barda
     その青い犬は大きい。
2.2) le gerku noi blanu cu barda
     その犬、それは青いのだが、は大きい

例文 2.1では poi blanu で表される情報はどの犬を話題にするのかを決めるのに必要だ。この関係節があることで、候補となる犬がすべての犬から青い犬に限定される。だから poi 関係節は限定関係節と呼ばれる。それに対して、例文 2.2ではおそらくどの犬を話題とするのかはすでに明らかであり、関係節 noi blanu はその犬についての追加の情報を提供するだけだ(たとえ実際にはどの犬を話題にするのかが明らかではなかったとしても、ここでの関係節はそれをより明確にすることはできない)。

さらにいくつかの非限定関係節の例文を以下に示す。

2.3) mi noi jdice cu zvati
     私、審判、がいる。

この例文では mi はすでに特定されている。私が審判であるというつけたしは聞き手により多くの情報を与えるためだけに提供されている。

2.4) xu do viska le mi karce noi bladi
     私の車、それは白い車ですが、が見えますか。

例文 2.4では、話し手はたぶん一台しか車を持っていなくて、非限定的な情報としてそれが白いことを伝えたのだろう(あるいは le karce は複数でもよいので、その人は複数の車を持っていてもいい。その場合、非限定的な情報はそれらすべてが白いという意味になる)。限定関係節を使った例文 2.5と比較してみよう。

2.5) xu do viska le mi karce poi blabi
     私の白いほうの車が見えますか。

ここでは、話し手はたぶん何台か車を持っているのだろう。そして、スムティ le mi karce の指すものを(そして結果として聞き手の注意を)白い車だけに限定している。例文 2.5は関係節を使っていない例文 2.6とだいたいおなじ意味である。

2.6) xu do viska le mi blabi karce
     私の白い車が見えますか。

このように、描写につけられた限定関係節はしばしばタンルを含む描写とおなじ意味を表せる。しかし blabi karce はほかのタンルとおなじようにいくらか曖昧だ。タンルの原則にしたがえば、それは白いものを運ぶ車を指してもいいし、白-性と車-性を含むもっと複雑な意味を表してもいい。例文 2.5の限定関係節は白い車だけを指し、もっと複雑な拡張された意味を表すことはない。

3. 関係句

以下のシマヴォをこの節で説明する。
pe	GOI	限定関係
po	GOI	限定所有
po'e	GOI	限定固有所有
po'u	GOI	限定同一
ne	GOI	非限定関係
no'u	GOI	非限定同一
ge'u	GEhU	関係句終端詞

ロジバンにはよく使われる(セルブリを共有する)定型的な関係節があり、関係句という短い形で表すことができる。関係句はセルマホ GOI に属するシマヴォとそれに続くひとつのスムティから構成される。

pe の例文と関係節を使ったおなじ意味の例文を示す。

3.1) le stizu pe mi cu blanu
     私の椅子は青い。
3.2) le stizu poi ke'a srana mi cu blanu
     私と関係のある椅子は青い。

例文 3.1例文 3.2では椅子と話し手の関係は弱い種類のものである。

# note: 関係というものの種類がその強さによっていくつかのグループに分けられて、そのなかで最も弱いグループを pe が表しているということ

po の例文を示す。

3.3) le stizu po mi cu xunre
     その私と特別な関係にある椅子は赤い。
3.4) le stizu poi ke'a se steci srana mi cu xunre
     その私と特別な関係にある椅子は赤い。

例文 3.3例文 3.4では例文 3.1例文 3.2と比較して、椅子はより持続的に話し手にむすびつけられている。例文 3.1例文 3.3の意味のちがいはたとえば以下のようなものである。ただし、これらは解釈の一例でありほかの解釈もありうる。つまり、pe mi は(話し手が所有していてもいなくても)今現在話し手が座っている椅子を示し、po mi は(話し手が現在座っていてもいなくても)話し手が所有する椅子を示す。

# note: 上の訳はだいぶましになったが、さらに流暢な日本語に意訳すること

このように、po でつながれたふたつのスムティの関係はたいてい「所有」と呼ばれる。しかし、po が意味するのは法的な所有やその他の意味での所有だけではない。中心的な意味は特別(ロジバンでは steci)であるということだ。

# note: although は本来ならば譲歩であり「...にも関わらず」という意味であるが、より流暢な日本語とするために、「しかし、...」と訳した
# note: the relationship expressed between two sumti by "po" は本来ならば「po で表されるふたつのスムティのあいだの関係」となるのだが意味をとってより流暢な「po でつながれたふたつのスムティの関係」と訳した
# note: だいぶ良くなったが

po'e の例文と po のもうひとつの例文を示す。

3.5) le birka po'e mi cu spofu
     私と生来的に特別の関係にある腕が壊れる。
3.6) le birka poi jinzi ke se steci srana mi cu
spofu
     私と生来的に特別の関係にある腕が壊れる。
3.7) le botpi po mi cu spofu
     私と特別な関係にある瓶が壊れる。

例文 3.5例文 3.6のふたつと、例文 3.7とはそれぞれふたつの種類の所有を対比している。そのふたつとは固有と外来である。不可譲と譲渡可能とも呼ばれる。何かが固有(不可譲)に所有されていると言えるのは所有物が所有者の一部であり、所有者を変化させずにそれを変えることができないときである。例文 3.5を見てみよう。人々は通常腕を固有に所有しているとされる。たとえ、腕が切り落とされたとしてもその腕はその人のものである(ただし、もし腕が移植されたとしたら、それは新しい使用者に固有に所有されていることになる。つまり、固有な所有とは程度の問題なのだ)。

それに対して、例文 3.7の瓶は誰かにあげたり、捨てたり、なくしたり、盗まれたりする可能性がある。だからそれは外来に所有されているということになる。固有と外来の境界は文化に依存している。独立宣言では人間の「不可譲な権利」がうたわれている。しかし、何がその権利であるのか、またはその考えかたが意味を持つのかどうかさえ、文化によって様々である。

例文 3.5は関係節を使わなくても表現できる。

3.8) le birka be mi cu spofu
     私の腕が壊れる。

このように言えるのは、ギスム brika が腕が属する体を表す x2 の場所を持つからだ。このように、たいていにおいて、固有所有は po'e を使わないで、所有者を描写セルブリの適当な場所に置くことで表せる。

po'u の例文を示す。

3.9) le gerku po'u le mi pendo cu cinba mi
     私の友達である犬が私にキスをする。
3.10) le gerku poi du le mi pendo cu cinba mi
     その[犬 = 私の友達]が私にキスをする。

シマヴォ po'u は所有ではなく同一を意味する(po'u は poi du を意味するのでその関係を示す形が選ばれた)。

# note: note that it meas "poi du" and its form was chosen to suggest the relationship を「... は ... を意味するのでその関係を示す形が選ばれた」としたが、もうすこしさりげない言いかたに直したい

例文 3.9では po'u が使われていることで le gerku と le mi pendo がおなじものを指していることがわかる。例文 3.9と以下の例文とのちがいを見てみよう。

3.11) le mi pendo po'u le gerku cu cinba mi
     犬である私の友達が私にキスをする。

これらは事実としてはおなじであるが状況に対する聞き手の知識はちがうかもしれない。例文 3.9では、聞き手はたぶん le gerku がどの犬を指すのかわからないのだろう。それで、話し手は彼の友達であるような特定の犬としてはっきりさせるために関係句をつける。

# note: but the listener's knowledge about the situation may not be を「状況に対する聞き手の知識はちがうかもしれない」と訳したが、「その場における聞き手の知識についてはちがいがある」と訳すか、もっと良い訳があるように思う。そもそも knowledge を知識と訳すのが固すぎる気がするが他に良い訳が見当たらない

例文 3.11では、聞き手は話し手がどの友達を指しているのかがわからないのだろう。だから、その友達が犬であると特定している(どの犬であるかは明らかとされる)。おなじ対照の例文を示す。

# note: "which dog is taken to be obvious" の意味がはっきりしない。「その犬は明らかとされる」「どの犬であるかは明らかとされる」等の訳を試みた。ニュアンス的には「"that is the dog" によって指される犬は一意に決まる」といったところだろうか
3.12) le tcadu po'u la nu,iork
     ニューヨークである街[他の街ではない]
3.13) la nu,iork po'u le tcadu
     街であるニューヨーク[州やその他のニューヨークではない]

GOI に属するシマヴォには所有者と所有物を入れ換えられるという原則があるため、おかしな感じがする文を作ることができる。

# 訳注: pe や po が意味するのは関係があるということであって、それが所有と解釈される場合が多いというだけである。つまり、もともとは所有の意味は含まれていない。「関係がある」というだけの関係なので両辺は入れ換え可能となる。しかし、英語の of や日本語の「の」として解釈した場合にはすこし変な感じがするということだろう。
3.14) le kabri pe le mi pendo cu cmalu
     その私の友達のコップは小さい。
3.15) le mi pendo pe le kabri cu cmalu
     そのコップの私の友達は小さい。

例文 3.14は「私の友達」がすでに話に出ていて、その人のコップが小さいと言うときに使える。それに対して、例文 3.15は、なんらかの「コップ」がさきに話に出ていて、そのうえでほかの友達から区別して「そのコップの私の友達」のことを話すときに使える。この表現だとコップが人間を「所有」しているみたいに見える。日本語ではこの関係を所有としては表現できない。「そのコップの私の友達」は意味をなさないように見える。しかしロジバンでは問題なくそう言える。

# note: in a context which is about my friend をどう訳すか。「私の友達という文脈」だと固い。「私の友達のことを話しているときに」等が良いかあるいはもっと意訳して「私の友達が既出のときに」等も考えられる
# note: is useful in a context which ... の useful をどう訳すか。「と言うときに使える」という訳だと日本語らしくない気がする。文脈も含めて、もっと良い意訳を考えること(次の見直しに回す)
# note: 原文では英語の my friend of the cup についてコップが人間を所有しているみたいで変だと言っている。日本語の「の」だとコップの所有者を表すのに「そのコップの人」と言えなくもない。英語独自の話題としてここらへんを削ってもいいかもしれない

最後に、シマヴォ ne と no'u があり、それぞれ pe と pe'u に対して、poi に対する noi に該当するものである。つまり、非限定的な情報を提供する。

3.16) le blabi gerku ne mi cu batci do
     白い犬、それは私の犬なのだが、が君をかむ。

例文 3.16では、どの白い犬かは最初からわかっている(どの犬が自分をかんだかはだいたいわかるだろう)。その犬があなたのものだということは主ブリディの内容へのつけたしでしかない。

# note: after all, presumably ... を「当然 ... はずだ」と訳した。ちょっとニュアンスが違うが、感じとしては、「何だかんだいっても、結局のところどの犬が自分をかんだのかはだいたいわかるよね」といった感じだ思う。

po'u と no'u の区別にはすこし微妙なところがある。人が何人かいる部屋を考えよう。そのなかの1人がジムという名前だ。もし君が彼らの名前を知らなければこう言える。

3.17) le nanmu no'u la djim. cu terpemci
     その人、ジム、は詩人だ。

ここで、私はそこにいる人のうちの1人が詩人であり、つけたしとしてその人の名前がジムであると言っている。もし君が彼らの名前を知っているならば、

3.18) le nanmu po'u la djim. cu terpemci
     そのジムという人は詩人だ。

と私は言うだろう。ここではその人の名前がジムであるということによって、話題としている人を特定している。

最後に、シマヴォ GOI の省略可能な終端詞はセルマホ GEhU に属する ge'u だが、必要とされることはまずない。しかし、論理的接続詞が関係句に修飾されたスムティの直後に続く場合、その論理的接続詞が関係句のスムティではなく修飾されたスムティに係るようにするために明示的な ge'u が必要となる(セルマホ GOI の名前のもととなったシマヴォはどうなったか。これは第7章で議論される。他の種類の関係句と文法的にはおなじでも、意味論的には別種だからだ)。

# note: 最後の()内はシマヴォ goi が意味論的には関係句ではないということを言っている。よりわかりやすく意訳する必要がある

4. 複数の関係節: zi'e

以下のシマヴォをこの節で説明する。
zi'e	ZIhE	関係節結合詞

複数の関係節をひとつのスムティにつけることが必要かまたは役に立つことがある。ロジバンではそのためにセルマホ ZIhE に属するシマヴォ zi'e を使う。zi'e は複数の関係節をひとまとまりにすることで、おなじひとつのスムティにかかるようにする。たとえば、

# note: one or more ということで「ひとつ以上の」であるが、ひとつの関係節をまとめるというのはおかしいので、one or more ではなく more than one が正しいと思われる。よって more than one であると考えて「複数の」と訳した
# note: necessary or useful を「必要かまたは役に立つ」と訳したが
4.1) le gerku poi blabi zi'e poi batci le nanmu
cu klama
     その白くて人をかむ犬が行く。

zi'e は英語ではよく and と訳されるが、本当の論理的接続詞ではない。論理的接続詞(第14章参照)のほとんどが文同士の論理的接続に換えられるが、zi'e では換えられない。

種類のちがう関係節同士を zi'e でつなぐことができる。

4.2) le gerku poi blabi zi'e noi le mi pendo cu
ponse ke'a cu klama
     白い犬、それは私の友達の犬だが、が行く。

例文 4.2では、限定節 poi blabi は問題となる犬を決めるが、非限定節 noi le mi pendo cu ponse はつけたしである。聞き手は poi blabi だけでどの犬かわかるということになる。もちろん、非限定節を先にしても、強調については変わるにしても、意味は変わらない。

# note: though not necessarily the emphasis を「強調については変わるにしても」と訳したが

関係句同士または、関係句と関係節も zi'e でつなぐことができる。

4.3) le botpi po mi zi'e poi blanu cu spofu
     私の青い瓶が壊れる。

ちなみに、例文 4.3の意訳が「私の瓶、それは青いのだが、が壊れる。」であったならば、ロジバンのほうでは poi ではなく noi を使う。この場合、瓶が青いということは瓶を決めるのに必要ないからだ。例文 4.3はたぶん複数ある瓶のなかから、話題となる青い瓶を選び出す必要があるということだ。

4.4) mi ba zutse le stizu pe mi zi'e po do zi'e
poi xunre
     私は赤い本当はあなたの物である私の椅子に座るだろう。

例文 4.4は、ふたつより多くの関係句または節が zi'e でつなげられることを示している。この例文はほとんど意訳できない。椅子を一時的に私と関係づける pe mi と椅子をより持続的にあなたに関係づける po do とを日本語では区別できないからだ(もしかすると、私はあなたの家に招待されたのかもしれない。それならばその椅子は必然的にあなたの所有物ということになる)。

もうひとつ例文を示す。ひとつの関係句とふたつの関係節とが、そして限定と非限定とがまとめられている。

4.5) mi ba citka le dembi pe mi zi'e poi cpana
le mi palta zi'e noi do dunda ke'a mi
     私は皿の上の私の豆を食べるだろう、それはあなたがくれたもの
だ。

5. 非真実関係節 : voi

以下のシマヴォをこの節で説明する。
voi	NOI	非真実関係節導入詞

セルマホ NOI には三種類目の関係節を導くもうひとつのシマヴォ voi がある。voi に導かれる関係節は poi に導かれるものとおなじく限定的である。しかし、poi 関係節と voi 関係節には基本的なちがいがある。poi 関係節は lo や loi とおなじ意味で真実として発言されている。そのブリディは実際に事実として解釈しなければならない。たとえば、

# note: 「三種類目」というのがどうにも美しくないのだが、しかし third kind of はそう訳すしかないかな
# note: A `poi' relative clause is said to be veridical, をどう訳すべきだろうか。ここでは is said を普通に受動態とし、to be veridical を「真実であるように」と解釈した。be said to be を熟語として解釈すると意味が通らないように感じた。再検討の必要あり
# note: actually be true を「実際に事実であるとして」と訳したがくどいかも
5.1) le gerku poi blabi cu klama
     白い犬が行く。

犬が白いのは実際に事実でなければならず、そうでなければこの文はまちがいとなる。白い犬と茶色い犬とがいるときに話し手が茶色い犬を示すのに le gerku poi blabi を使ったら、聞き手は正しく理解することができないだろう。しかし、

# note: miscommunication のニュアンスを訳文に出すのが難しい。「誤まった伝達」や「うまく伝わらない」といった感じなのだろうと思うが
# note: 「誤解をまねく」という表現はややニュアンスがずれるがこなれてはいる
# note: 「誤解されるだろう」あたりが調度いいか
# note: しかし「誤解」という言葉には「言っていることは正しいが」というニュアンスがあるのでやはり意味的にぴったりこない
5.2) le gerku voi blabi cu klama
     私が白い犬として描写する犬が行く。

は問題の犬が実際には、白であるという(それが何であれ)客観的な基準に合わないかもしれないということに聞き手の注意をうながす。話し手だけがその表現で何を意味しているのかを正確に言うことができる。このように、voi は le のように話し手の意図によって意味が決まる。

だから以下のふたつの文は、

5.3) le nanmu cu ninmu
     その男は女だ。
5.4) ti voi nanmu cu ninmu
     男であるこの人は女だ。

基本的におなじことを意味する(ただし、例文 5.5は ti による指示を含むが、例文 5.4は含まない)。どちらにも矛盾はない。(聞き手を混乱させるかもしれないが)たとえ実際には女であったとしても、その人を男として描写することにまったく問題はない。

6. 関係節と描写

# note: 「場所は三ヶ所ある」や「3つの場所」などの表記のゆれが気になる
# note: 全体に言えることだが「ひとつ」「ふたつ」、「1つ」「2つ」、「一つ」「二つ」等、平仮名、数字、漢数字による表記について、どういうときにどれを選ぶかを決める必要がある
# note: とりあえずの方針として漢字表現のなかの数字は 1, 2, 3 ... とし、 ひとつ、ふたつ、みっつ等は平仮名とする

いろいろな関係節と関係句を説明してきたが、すべてそろったので、この章の残りの部分では関係節を含むスムティの文法について説明する。ここまで、関係節は被修飾スムティのすぐうしろに置かれていた。これがもとからある普通の使いかただが、関係節をほかの位置に置くこともでき、それにより意味が変わる場合がある。

# note: So far, this chapter の部分は訳出しないことにした
# note: various kinds of を「いろいろな」と訳した
# note: the rest of the chapter を「この章の残りの部分では」と訳したがやや固い
# note: that include relative clauses を「関係節を含む」と訳した
# note: be concerned with ... を意訳して「... について説明する」とした
# note: the most common position を「もっとも一般的な位置」と訳したが
# note: this is the most common position (and originally the only one)を「これがもとからある普通の使いかただが」と意訳。多少情報が減るので、必要とあれば注釈として「もともとは直後に置く使いかたしかなかった」等を加えることにする

関係節が描写スムティを修飾する場合、その位置は、描写型の冠詞(le, lo など)のあと、うめこまれたセルブリのあとでかつ省略可能な終端詞(つまり ku)のまえ、そして ku のあと、の3ヶ所である。これまでに見てきた描写スムティを修飾する関係節は2番目の位置に置かれていることになる。だから、例文 5.1は、省略可能な終端詞をすべて略さないで書くと次のようになる。

# note: 英語の "actually" のニュアンスは日本語では伝えにくい。ここでは前の段落でおおまかに言ったことについて「具体的に言うと」といった意味になるだろうか。「他の位置もある」を受けて「その位置というものは実のところ」といった感じ。訳出しないことにした
# note: attached to descriptors はそのままだと「描写型の冠詞につけられた」だが、意味を考えると「描写スムティにつけられた」となるだろう
# note: we have seen をどう訳すか。「これまでに見てきた」と訳したがややぎこちない
# note: attach を「つける」と訳してきたが、意訳して「修飾する」としたほうがひっかからないように思う
# note: 「次」を使うか「以下」を使うかで表記のゆれがある。次回の見直しで統一すること
6.1) le gerku poi blabi ku'o ku cu klama vau
     その白い犬は行く。

ここで、ku'o は poi と対になる終端詞であり、ku は le、そして vau はブリディ全体の終端詞である。

関係節が le gerku などの le による単純な描写を修飾する場合、どこに関係節が置かれるかは表現や強調の問題でしかない。だから、以下の例文はすべて例文 6.1とおなじ意味である。

6.2) le poi blabi ku'o gerku cu klama
     その白い犬が行く。
6.3) le gerku ku poi blabi cu klama
     その白い犬が行く。

例文 6.1は関係節が修飾される名詞句のあとに置かれる英語などの言語の話者にとって自然に感じられる。それに対して、例文 6.2は関係節を修飾される名詞句のまえに置くフィンランド語や中国語の話者にとってより自然に感じられるだろう。例文 6.2では、省略可能な終端詞 ku'o を明示する必要があることに注意しよう。そうしないと、関係節のセルブリ(blabi)は描写のセルブリ(gerku)とくっついてしまい、文法的に正しくない文になってしまう。例文 6.3の形についてはあとで説明する。

# note: "The purpose of the form appearing in Example 6.3 will be apparent shortly." の意味は「例文6.3で使われている形式の使い道はあとで示す」といったところだが、英語のニュアンスを残しながら、流暢な日本語に直すのが難しい。より意訳的な訳に直すときに適切な日本語を模索すること。いずれにしても、例文6.1、6.2 と来て、6.3 についてはあとに回すよ、といった意味なので、さらりと訳してしまったほうが良いかもしれないと思い、単に「例文6.3についてはこのあと説明する」とだけ訳した。
# note: Note ... は、... の部分がつけたしであるといったニュアンスで使われているように思う。それを訳文で表現するのが難しい

詳しくは第6章で説明するが、描写は内部数量詞と外部数量詞で修飾することができる。内部数量詞は描写がいくつのものを指すのかを決めるもので、描写型の冠詞と描写セルブリのあいだに置く。外部数量詞は描写型の冠詞のまえに置き、描写によって指されるもののうちのいくつがそのブリディの対象になるのかを示す。以下の例文では、

# note: attach を「つける」と訳すとやや舌足らずな感じがするので、より意味を明確にして「修飾する」と訳した
# note: are involved in this particular bridi を「ブリディの表す関係の対象になる」と訳したが、「ブリディ」という語のなかにすでに「関係」という概念が含まれているので、「ブリディの対象になる」と簡略化できる。ただし、簡潔さとわかりやすさのトレードオフになるので、どちらが良いかは一概には言えないが今回は簡潔さを取る
# note: 上記について。「ブリディ」という語が関係という意味を含むといった話は訳注としてのせれば良い
# note: 英文中にしばしば出てくる particular はいちいち日本語に訳す必要はないと思うがしかし、それの表すニュアンスはできるだけ伝えたい。「それぞれの」とか「まさにその」とか「他でもないその」とか、そんな感じで「その」を強調し、個々のものである感じを強調する感じか
# note: involve をここでは「対象になる」と訳してみた
6.4) re le mu prenu cu klama le zarci
     その5人の人のうちの2人がその店に行く。

mu が内部数量詞で re が外部数量詞である。この例文でスムティ re le mu prenu に関係節をつけるとどうなるだろうか。例として関係節 poi ninmu (女性である)をつけてみよう。この場合には関係節が3つの位置のうちのどこに置かれるかで意味が変わってくる。

# note: ここでは attach をそのまま「つける」と訳す
# note: what is meant は「どういう意味になるだろうか」だが、くどいので「どうなるだろうか」とする
# note: 最後の文は「3つの位置のどこに関係節が入るかが重要になる」と訳したほうが良いかもしれない。あとで検討すること
# note: さらに意訳を進めて「3つの位置のどこに関係節が入るかによって意味が決まる」や「...によって意味が変わる」としたほうがわかりやすいかもしれない
6.5) re le poi ninmu ku'o mu prenu cu klama le
zarci
     その5人の人のうちの2人の女性が店に行く。
6.6) re le mu prenu poi ninmu [ku] cu klama le
zarci
     その5人の女性のうちの2人が店に行く。
6.7) re le mu prenu ku poi ninmu cu klama le
zarci
     その5人の人のうちの2人の女性が店に行く。

例文 6.6は5人すべてが女性であることを示す。それに対して、例文 6.7は店に行った2人が女性であることを示す。どっちがどっちかをどう覚えたらいいだろうか。例文 6.7のように関係節が ku のあとにあるとき、スムティは全体として関係節に修飾される。ku がないかまたは ku のまえに関係節があるとき、関係節はスムティを構成するセルブリが指すものすべてを修飾する。

# note: explicit "ku" を「明示的な ku」と訳したが、explicit はもっと軽く訳するか、または訳出しなくてもよいかもしれない
# note: underlying をどう訳すか。スムティの基盤になっているセルブリといったニュアンスだろうと思われるが
# note: 最後の一文はもっとわかりやすく意訳する必要がある

例文 6.5はどうだろう。これは慣用として例文 6.7とおなじ意味を表す。この場合、ku は省略できるがたいていは ku'o が必要となる。関係節が内部数量詞よりまえにあることに注意しよう。

# 訳注: これは、poi ... が前にかかるのだから、"re le" を修飾していると考えると覚えやすいかもしれない
# note: 「慣例により」は固いが、by convention のいい訳が他に見つからない。「慣用として」のほうがややましかもしれない。けど、やはり固いな

第6章にあるように、le による描写において外部数量詞が明示されていないとき、そのスムティの外部数量詞は ro (すべて)であるとして解釈される。だから、le gerku は「私が犬として示すもののうちのすべて」(場合によっては「ひとつのうちのすべて」)を意味する。この場合には関係節が ku のあとでもまえでもかわらない。しかし、lo による描写ではそのちがいは大きい。

# note: ここらへんの話題は xorlo 前後で変化していると思われる。たしか暗黙の数量詞というものは考えなくなったのではなかったか。訳が一応完成した段階できちんと調べて訳注にすること
# note: "all one of them" は文脈から、「ひとつのうちのすべて」と訳した。ひとつしかないもののうちのすべて、つまり「ひとつのうちのひとつ」と考えたが確信がない
6.8) lo prenu ku noi blabi cu klama le zarci
     何人かの人、その人たちは白いのだが、が店に行く。
6.9) lo prenu noi blabi [ku] cu klama le zarci
     何人かの人、人というものは白いものだが、が店に行く。

例文 6.8例文 6.9はどちらもひとり以上の人が店に行くと言っている。しかし、それらの関係節の内容には大きな違いがある。lo prenu noi blabi の意味を考えてみよう。デフォルトの内部数量詞は ro (すべて)であり、外部数量詞は su'o (すくなくともひとつ)である。まずはすべての人をとりあげて、そしてそこからすくなくともひとりが選ばれる。ブリディ全体の意味としてはひとり以上の人が行くということになる。

# note: claim のいい訳が見つからない。「主張」と訳しているが、もっとこなれた訳はないだろうか。「非限定関係節の内容には」と訳そうか。あるいは「関係節の内容には」と訳すか
# note: (meaning ...) を(つまり ...)と訳したが meaning は訳出しなくてもいいかもしれない。より意訳的に訳する段階で消すことにする

例文 6.8では、関係節は外部数量詞が係ったあとにそのスムティを修飾する。つまり、ひとり以上の人、その人たちは白いのだが、が行っている。しかし、例文 6.9では、関係節は外部数量詞が係るまえにそのスムティを修飾する。「まずすべての人をとりあげる。ところで、彼らはみな白いのだが」ということになる。すべての人間が白いわけではないので、この関係節の内容は誤りとなる。

# note: once を「したあとに」と訳した。本来は「するとすぐに」等の意味
# note: この段落にも訳出しづらい actually が出てきた。英語において actually というものは軽い強調や、ほとんどリズムを整える程度の意味しか持たないように思える。ここでのニュアンスとしては「意味的におかしいのでそうは思わないだろうけど、実はこの関係節は人間全体にかかるのだ」といったところだろうか
# note: being made here を「この」と訳した
# note: 最後の文はより意訳的に訳する際にもっとこなれた日本語にすること

このように、noi 関係節を lo による描写につけるときにはいつも ku を使うことにしたほうが安全である。そうしないと言いすぎることになるかもしれない。

# note: end up claiming far too much 「はるかに多く主張しすぎる」つまり、あるもののいくつかのものについて言おうとしているのに、そのもののすべてについて言っていることになってしまうということ。もっとちゃんとした日本語に意訳すること

la に続くセルブリは名前として使われるので、関係節の位置のちがいによる影響も変わってくる。ku のなかにある関係節はセルブリのまえでもあとでも名前の一部となるが、ku の外にある関係節はそうではない。だから、

6.10) mi viska la nanmu poi terpa le ke'a xirma [ku]
     私は「自分の馬を恐れる男」さんを見る。

では、話し手はその名前の人を見ているのであり、その人は馬を恐れているとは限らない。しかし、

6.11) mi viska la nanmu ku poi terpa le ke'a xirma
     私は自分の馬を恐れる「男」さんを見る。

は「男」という名前で自分の馬を恐れている人(たち)を見るということを示す。

note: namely は「すなわち」ということで、おそらくその前後でおなじものを指しているということを明示しているのだろうと思う

最後に、re lo karce (つまり re lo ro karce)とほぼおなじ意味の re karce のようないわゆる不定スムティにも関係節をつけられる。この場合、ku の外側の位置として解釈される。例文を挙げる。

# 訳注: 不定スムティとは lo を省略した描写スムティのこと。数量詞 + スムティ のような形となる。第6章第8節参照
# note: means almost the same as "re lo karce" とあるが、どうして almost なのだろうか。意味の違いがあるのだろうか
# note: これが ku の外側として解釈されるというのは統一感がない気がする。理論的な統一感よりも使いやすさを優先したということか。この場合のスムティには ku がつけられないからということなのかもしれない。xorlo 以降ではまた解釈が変わっているかもしれない
6.12) mi ponse re karce [ku] poi xekri
     私はふたつの黒い車を持っている。

限定関係節はすべての車にではなく、主ブリディに関係するふたつの車にだけ係る。関係節を不定スムティの内部(つまり明示的な終端詞 ku の前)に置くのは文法的に正しくない。代わりに明示的な lo を使う。

# note: re lo karce poi xekri ku と re lo kauce ku poi xekri との意味の違い。前者では黒い車のうちの2台であり、後者は車のうちの2台を取り出す際に黒いという条件がつくということか。結果としてはおなじことであると考えて良いのか、それとも何らかの意味の差異は残るのか
# note: 上記 note について。前者は黒い車がいくつかあるうちの2台であり、後者は車がいくつかあるうちの黒い2台となる。ただ、その場合に選ばれた2台以外に黒い車があっても良いのかどうかは、よくわからない。noi ならもちろん問題ない。黒い車として限定して、そのなかから2台を選ぶということを考えて良いのだろうか

7. 所有スムティ

例文 2.4から例文 2.6までの例文のなかで「私の車」と意訳されているスムティ le mi karce が使われている。そうは見えないかもしれないが、このスムティのなかには関係句がある。スムティが描写型の冠詞と描写セルブリのあいだにあるとき、そのスムティは pe 関係句となる。だから、

7.1) le mi karce cu xunre
     私の車は赤い。

7.2) le pe mi karce cu xunre
     私の車は赤い。

はまったくおなじ意味だ。さらに、ここでは数量詞についてとくに考える必要がないので、

# note: no special considerations を「とくに考える必要がない」と訳した
7.3) le karce pe mi cu xunre
     私の車は赤い。

もまたおなじ意味である。例文 7.1にあるようなスムティを「所有スムティ」と呼ぶ。これは「持ち主である」という意味での所有を意味するのではなく、pe 関係句に見るように、弱い関係を示すだけである。一晩それを借りただけでも le mi karce と言える(日本語では「私の車」は普通 le karce po mi を意味する。しかし、「バスの私の席」は別の意味での所有である。ロジバンでは弱いほうの意味を標準とした)。そういうわけで、例文 7.1のスムティのなかのスムティを「所有スムティ」と呼ぶのは妥当だろう。

# note: ownership と possession の訳しわけが難しい。「「持ち主である」」と「所有」としてはおいたが
# note: より簡単にとにかく所有スムティは所有を意味しないということを、 示せばいいのかもしれない
# note: actually 同様、it does not really indicate possession in the sense of ... の really も奇麗な日本語にならない。とりあえず「実際に」と訳した
# note: 英語では actually や really 等、「本当は」とか「実は」とかが強調やその文が置かれた文脈を示すためによく使われているが、日本語にすべてを訳出してしまうと自然な文章にならない。しかし訳出しないとせっかくの意味的な流れを示すシグナルがなくなってしまう。バランスが大事ということころか
# note: Lojban simply makes the weaker sense the standard one. の simply 「単に .. としているだけだ」と取るか、あるいは「わかりやすく」と取るか。後者であれば simply は makes the weaker sense the standard one が読者や他の人達にとって「わかりやすい」といった意味合いになると思う。ここでは「単純に」と訳しておいた
# note: inner sumti をどう訳すか。とりあえず「内部のスムティ」としておいたが、ここでのスムティのなかのスムティという意味からの意訳が必要だろう
# note: correspondingly はそこまでで述べられてきた文法構造と「所有」との関係を受けて、「それにふさわしく」といった意味を述べている。ここでは「以上より」と訳しておいたがあまりいい訳ではない。もっと良く意訳する必要あり

歴史的に所有スムティは関係句(節)よりも先にあった。そしてここまで説明してきたような関係句や関係節の機能が作りあげられていくなかでも存在し続けた。例文 7.2のタイプの前置関係節が考案されたときに、所有スムティはその特殊なケースであると見なされるようになった。

# note: 上記は固いが英文中に含まれるニュアンスをすべて反映しようとすると上の訳文のようになってしまう。次回の見直しでは、より意訳的な訳とする
# note: any other kind of は訳出しないことにする
# note: in this chapter は訳出しない
# note: slowly も訳出しない
# note: most easily も訳出しない
# note: 「存在し続けた」は固いがほかにいい訳が思いつかない
# note: 「考案された」もやや固いな
# note: 次回の見直しの際にさらになめらかな日本語にしたい

どんなスムティでも本格的な関係句のなかになら置くことができる。しかし、pe を使わない所有スムティとなれるのは単純なスムティだけである。おおまかには、所有スムティとして正しいのは、代スムティ、引用、名前、描写、数である。また、所有スムティのまえに数量詞をつけてはならない。そうしてしまうと、あまり使われない「描写型の冠詞 + 数量詞 + スムティ」という形の描写として解釈されてしまう。この形のスムティは第6章に詳しい。

# note: full fledged は「羽毛のはえそろった」から「本格的な」
# note: can appear as を「となれる」と訳した
# note: unusual を「あまり使われない」と訳した
# note: however complex は訳出しない

所有スムティとして描写を使う例を示す。

# note: Here is an example of ... を「... の例文を示す」で統一しよう
# note: 上記について。ここでは「... を使う例を示す」のほうがなめらかか
7.4) le le nanmu ku karce cu blanu
     その人の車は青い。

所有スムティのおわりの明示的な ku に注意しよう。それがないと、所有スムティは外側の描写スムティのセルブリとくっついてしまう。ku が必要なため、描写は所有スムティとしてはあまり使われず、普通の関係句として使われることが多い。所有スムティとしてよく使われるのは終端詞を必要としない代スムティであり、なかでも人称代スムティが使われることが多い。

# note: 上の文章は段落全体として、意訳してしまったほうがいいだろう
# note: 今後は訳注と note を分けることにする。自分の覚え書きは note とする。訳注は読者のための追加の情報とする

所有スムティとして数を使う例を示す。

7.5) le li mu jdice se bende
     審査員5番

これは「5番目の審査員」とはすこしちがう。この場合、審査員と数5とが何らかの弱い関係にあることを示しているにすぎない。

# note: juror を「審査員」と訳したが「陪審員」とした方が良いのかもしれない。すくなくとも、ロジバンの jdice は「決める人」であり、もっと意味が広い

所有スムティには関係節をつけることができる。ここでは、所有スムティのすぐうしろの関係節が外側のスムティにではなく所有スムティに係ることだけ知っていれば十分だ。たとえば、

# note: if it were not for ... で、「もし ... がなかったら」
# note: special rule を「特別ルール」としたが、あまり良い訳ではない。もうすこし近いニュアンスの訳語を探す必要がある。または意訳によってニュアンスを表現すること
7.6) le mi noi sipna vau karce cu na klama
     寝ている私の車が行かない。
# 訳注: つまり、le noi sipna vau karce のような描写に所有スムティをつけるときには気をつけなければならないということだ

は私の車は行かないという意味であるが、noi sipna は私の車にではなく私に係る。もしも、(意味はよくわからないが)車が寝ていると言いたければ、以下のようにしなければならない。

# note: ... applies to me, not my car, however. は ... applies to me, but my car と解釈して良いのだろうか。つまり not ..., however を but ... と考えて良いのか
7.7) le mi karce poi sipna cu na klama
     私の寝ている車が行かない。

ちなみに、例文 7.6では関係節のおわりに vau を使った。vau は単純なブリディの終端詞で、だいたいにおいて省略可能である。ここでは ku'o も使えるが、vau のほうが音節が短い。

8. 関係節と複雑なスムティ: vu'o

以下のシマヴォをこの節で説明する。
vu'o	VUhO	関係節付着詞
# note: attacher を「付着詞」と訳した。joiner の「結合詞」もそうだが今のところコンセンサスの取れた訳ではない

ふつうは関係節は単純なスムティかスムティの一部につけられる。つまり、代スムティ、名前、描写、純粋な数、引用である。純粋な数に関係節をつけた例文を示す。

# note: pure number とは何を指すか。とりあえず「純粋な数」と訳しはしたが。逆に pure でない number とは何か
8.1) li pai noi na'e frinu namcu
     無理数パイ

また、引用に非限定関係節をつけた例文を示す。

8.2) lu mi klama le zarci li'u noi mi cusku ke'a
cu jufra
     「私はその店に行く」とは私が言ったのだが、これは文である。

これは引用の発話者やそれ以外の関連する補足的な事実を示すのに役立つ。このような関係節は単純なスムティのうしろにしか置けない。

# note: author of the quotation を「引用の発話者」としたが、より良い訳はないか。「話者」「言い手」「書き手」等も考えられるが。
# note: 「それ以外の関連する補足的な事実」とは何か。また、よりシンプルな日本語に直せないだろうか
# note: 「補足的」とは、つまり主ブリディとして表されていないということか
# note: 「このような」はこの節で紹介された「純粋な数と引用に係る関係節」のことを指すと思われる。あとで訳注としてまとめること
# note: 「このような」はもしかすると「引用に係る関係節」のことだけを指す可能性もある
# note: 「前、後ろ」ではなく「まえ、うしろ」としたほうが可読性が高いように思う。
# note: , never before it 「まえに置くことはできない」の部分は訳出しないことにした

さらに、セルマホ LAhE や NAhE+BO といったスムティ限定詞(第6章参照)のつけられたスムティにも限定詞と被限定スムティのあいだに関係節をつけることができる。以下に例を示す。

# note: qulifier を「限定詞」、qualified を「被限定」と訳した。しかし、LAhE や NAhE+BO を何詞と呼ぶべきかという問題や、qualifier と modifier の使い分けについて考える必要がある
# note: 情報はやや減るが、after ... and before ... を「... と ... のあいだ」と訳してみた
# note: as in を「以下に例を示す」とした
8.3) la'e poi tolcitno vau lu le xunre cmaxirma
li'u cu zvati le vu kumfa
     古い「赤い小馬」があそこの部屋にある。

例文 8.3はちょっと複雑なので、すこし細かく見ていこう。"lu le xunre cmaxirma li'u" は「赤い小馬」という単語の並びを指す。例文 8.3で la'e がないと並んだ単語が遠くの部屋にあるという意味になってしまう。しかし、並んだ単語が部屋のなかにあるなんてありえない。la'e があるので、このスムティは単語の並びそのものではなく、その単語の並びが指し示すもの、つまりジョーン・スタインベックの小説(たぶんロジバン語訳)を指すことになる。その「赤い小馬」のうちの一冊が限定関係節によって特定される。例文 8.3は以下とまったくおなじ意味だ。

# note: need some picking apart を「ばらす必要がある」と訳した。「分解する」とかそういった意味だが、よりくどく意訳するならば、「細かく分けて、ひとつひとつ、説明する必要がある」等になると思われる。あるいは「ばらばらにして見ていこう」あたりがすっきりしてきれいな訳かも。または some を「すこし」と訳して「すこし細かく見ていこう」が日本語として自然かもしれない。ただ bit を「すこし」と訳したので重なってしまう。bit を「やや」と訳せば良いかもしれない。bit を「ちょっと」と訳すのは、もともと bit を副詞的に使うのが口語的な表現であることを考えても適している気がする。「ちょっと」と「すこし」の重なりもやや気になるがとりあえずこれでいこう
# note: 日本語の意味とは関係なく quotation の訳として「引用」を使おうか。quotation の意味を正確に表現できる日本語が見当たらない。むしろここでは訳出せずに単に「""」でくくられていることで引用であること示そうか
# note: 「単語列『赤い小馬』を意味する」はやや気に入らないな。「『赤い小馬』という単語の並びを示す」あたりがいいか。「示す」よりも「指す」のほうがいいか。
# note: a room distant from the speaker とあるが単に「遠くの部屋」と訳した
# note: a certain string of words を「ある単語の並び」と訳した
# note: obviously ... can't ... を「... なんてありえない」と訳した
# note: claim は「主張する」という訳でも良いとは思うが、もうすこし、こなれた訳はできないだろうか -> ここではより軽く「という意味になる」と訳してみた
# note: la'e at the beginning of the sentence の beginning は訳出しないことにした
# note: referent を「指し示すもの」と訳したがもっといい訳はないか
# note: effect を「効果」と訳したがもっとこなれた訳はないだろうか
# note: modify the sumti の modify は訳出しないことにした
# note: copy を意味する適当な日本語が思いつかない
# note: the particular copy of で「のうちのある一冊」と訳した
# note: identify を「特定する」と訳したがやや固い
# note: means exactly the same as を「正確におなじ意味だ」と訳すか、「まったくおなじ意味だ」と訳すかで迷ったがとりあえず後者にしておいた
8.4) la'e lu le xunre cmaxirma li'u lu'u poi
to'ercitno cu zvati le vu kumfa
     古い「赤い小馬」があそこの部屋にある。

ふたつの文の違いは文体だけと言える。lu'u 終端詞が必要であることに気をつけよう。これがないと、関係節が引用自体に係ってしまう。引用が古いと言いたいわけではないのだ。

# note: the two sentence can be considered stylistic variants は意味はわかるのだが日本語に訳しにくい。ふたつの文が形のうえでの違いでありスタイルの違いにすぎないということだ
# note: 上の訳はより流暢な日本語に意訳する必要がある

ここで、関係節が複雑なスムティの全体を修飾する必要がある場合について考えてみよう。論理的または非論理的接続を含むスムティである(Chapter 14参照)。次の例を見てみよう。

# note: however はこの場合、日本語の「しかし」と訳すのは適切ではないように思う。「今までは単純なスムティについて話してきたが」というニュアンスがあるのだろうが、ここでは「一方」という意味で訳しておいたほうが良いかも。とりあえずは「ここで、...について考えてみよう」と訳しておいたが
# note: it is important to make a relative clause apply to the whole of a more complex sumti, の意味はだいたい「スムティ全体にかかるということが意味の違いに大きく関わる」といったニュアンスだと思うが、適切な日本語が見つからないため、ニュアンスの違いはあるものの「が必要となることがある」と訳した。
8.5) la frank. .e la djordj. noi nanmu cu klama le zdani
     フランクとジョージ、彼は男だが、はその家に行く。

例文 8.5はフランクとジョージの両方が男であるという意味にはならず、ジョージが男であるというだけの意味となる。非限定関係節が直前の単純なスムティ la djordj にだけ係るからだ。

# note: incidental claim を「非限定的な説明」としたが、訳としては不正確だが、「非限定関係節」やあるいは単に「関係節」と訳しても良いように思う。特に incidental と言う意味はここではあまりない気がする。というよりむしろ incidental claim 自体を訳出しなくても良い気がする
# note: but only that George is a man を「ジョージだけが男であるという意味である」とすれば日本語としてスムーズだが、意味が不正確となる
# note: simple sumti は「単純なスムティ」と訳したが ...。simple sumti に何らかのより厳密な定義があるならば、専門用語として訳したほうがいいと思われる

例文 8.5で、論理接続されたスムティの両方に関係節が係るようにするには、セルマホ VUhO に属するシマヴォ vu'o を使う。vu'o はスムティと関係節のあいだに置かれ、関係節が論理的または非論理的接続を含むスムティ全体に係るようにする。

# note: 上訳はこなれていない、より意訳的に訳する必要がある
# note: a new cmavo を「新しく紹介するシマヴォ」としたが ...。「ここで導入する」とか、「別の」とか、「これまで出てきていない」とか。文の流れをさえぎるほど必要な情報ではないと思われるので訳出しないことにする
# note: また (of selma'o VUhO) の () は訳出しないことにする
# note: however many logical or non-logical connectives there may be をどう訳すか。「多くの接続を含んでいたとしても」という意味だと思うが
# note: 「影響の範囲を先行するスムティ全体へと広げる」はすこし固い。つまるところ、関係節が係る範囲が接続されたスムティ全体となるということだ
# note: including however many logical or non-logical connectives there may be は、「どれだけの数の論理的または非論理的接続が含まれていても」ということであり、「2つ以上の接続が含まれていても良い」ということを強調していると思われるが、訳出しないことにした
8.6) la frank. .e la djordj. vu'o noi nanmu cu
klama le zdani
     フランクとジョージ、彼らは男だが、は家へ行く。

うえの例文では vu'o があるので関係節 noi nanmu は論理接続されたスムティ la frank. .e la djordj. 全体に係る。訳のようにフランクとジョージの両方が男であることを表している。

9. 呼応句のなかの関係句

詳しくは第6章で説明するが、呼応句によって文や談話が誰に対して話されているか、誰を聞き手とするかを示すことができる。おおまかにわけて3つの形があるが、どれもセルマホ COI または DOI (これらは呼応語と呼ばれ、ひとつでも複数でもいい)で始まり、名前、セルブリ、またはスムティが続く。以下に3つの例文を挙げる。

# note: sentence or discourse を「文や談話」と訳したが、or discourse と言っている理由は .i で区切られる sentence よりも広い範囲についての話をするためと思われる。「文や話が」と訳すべきか。あるいは単に「話が」としても良いとは思うが
# note: 上記は違うかもしれない。書いた文について sentence と言い話された話について discourse と言っているのかもしれない。また、それに対応して以下の addressed to と listner とで分けているのだろう。
# note: とすると、日本語の「話」は書いたものについても話されたものについても使えるので、単に「話」としてしまってもいい気もするし、または「文」も話された言葉についても使えるので単に「文」としてもいいかもしれない。
# note: of indicating who a sentence or discourse is addressed to とof identifying the intended listener
#
9.1) coi. frank.
     こんにちは、フランク。
9.2) co'o xirma
     さようなら、馬。
9.3) fi'i la frank. .e la djordj.
     ようこそ、フランクとジョージ。

例文 9.2で別れを告げているものが実際には馬ではないかもしれないということに注意してほしい。話し手が馬だと思っているだけのものかもしれないし、もっと言えば「馬」という名前の何か(たとえば人)かもしれない。つまり、例文 9.2には"co'o le xirma" と "co'o la xirma" とのあいだでの曖昧さがあるということだ。これは比較的問題のない意味論的な曖昧さである。なぜなら名前というもの全般に曖昧さがあるからだ。たとえば「ジョージ」と言った場合、たくさんいるジョージのそれぞれを区別することはできないだろう。

# note: in a sense を「つまり」と訳してみた。本当は「ある意味」という意味なのかもしれないが「ある意味」が何を意味するのか、よく考えてみるとよくわからないところがある。何らかの譲歩なのだろうけど
# note: in general を「というもの全般に」と訳したが訳が固い。訳出しなくてもいいかも

同様に例文 9.1は以下の例文の省略形と考えることができる。

9.4) coi la frank.
     こんにちは、フランク(という名前の人)。

文法的には、呼応句は自由修飾句のひとつであり、ロジバンの文章のいろいろな場所に置くことができるが、たいていは完全な構造の最初か最後に置かれる。あるいは、例文 9.1から例文 9.3までのようにそれだけで文となる。

# note: some complete construct を「完全な構造」と訳したが、何を指すのかはよくわからない。some とついていることだし、何となく曖昧な意味で意っているのかもしれない

呼応句は形がスムティに似ているのがわかるだろう。呼応句はスムティとおなじようにいろいろな場所に関係節を置くことができる。(呼応語に続く)単純な名前であるような呼応句のなかでは関係節はその名前の直後に置く必要がある。

# note: as can be seen を「...のがわかるだろう」と訳してみた
# note: as you might expect は「おわかりのように」といった意味だろう。ここでは訳出しない
# note: any relative clauses must come ... の any は訳出しなかった
9.5) coi. frank. poi xunre se bende
     こんにちは、赤チームのフランク。

例文 9.5では、限定関係節が話し手が挨拶しているフランクとは区別しなければならない(たとえば緑チーム所属の)別のフランクがいることを暗に示している。

セルブリを含む呼応句は関係節をまえにもあとにも置くことができ、どちらでもおなじ意味になる。以下に例文を示す。

9.6) co'o poi mi zvati ke'a ku'o xirma
     さようなら、私のところの馬。
9.7) co'o xirma poi mi zvati
     さようなら、私のところの馬。
# note: 例文9.6, 9.7 の訳は直す必要がある。「私が乗っている馬」として良いだろうか

例文 9.6例文 9.7の意味はおなじである。さらに、関係節はまえとうしろの両方に置くことができる。

# note: in fact をとりあえずは「さらに」と訳しておいた

10. 関係節のなかの関係節

関係節のブリディのなかのスムティを別の関係節で修飾することができるということは、だいたいにおいてわかりやすい。

10.1) le prenu poi zvati le kumfa poi blanu cu
masno
     その青い部屋にいる人は遅い。

しかし、関係節のなかの関係節のなかで "ke'a" が使われている場合には(今の読者の知識では)2通りの解釈が可能となる。"ke'a" が外側のスムティを指すのか、あるいは、内側の関係節が係る外側の関係節内のスムティを指すのか。答えは後者である。前者を指すには添字つきの "ke'a" を使う。

# note: an ambiguity can exist を「曖昧さが生じうる」と訳すと、 lojban のなかで曖昧さが生じるようなニュアンスになってしまう。あくまでも、以下の説明をする前の読者にとっての曖昧さであり、その説明なしでは複数の解釈をしてしまう可能性がある、といった意味。そこらへんのニュアンスをどう訳出するか。ここは次回の見直しの際に段落全体の構造を変えて意訳したほうが良いだろう
10.2) le prenu poi zvati le kumfa poi ke'axire
zbasu ke'a cu masno
     その人が作った部屋にいるその人は遅い。

ここで、ke'axire つまり「それ-2」はもっとも内側から数えて2番目の関係節がつけられたスムティである。だから、"ke'axipa" (それ-1)は "ke'a" とおなじ意味である。

代わりに、冠頭(詳しくは16章で説明する)を使うこともできる。文法的には、スムティを列挙したあとに "zo'u" を続けたものであり、関係節のブリディの前につける。

10.3) le prenu poi ke'a goi ko'a zo'u ko'a zvati
le kumfa poi ke'a goi ko'e zo'u ko'a zbasu ko'e
cu masno
     その人(その人をそれ1とする:それ1はその部屋にいる(その部屋
をそれ2とする:それ1はそれ2を作った)は遅い。
# note: 底本では le prenu poi ke'a goi ko'a zo'u ko'a zvati le kumfa poi ke'a goi ko'e zo'u ko'a zbasu ke'a cu masno だが、これだと趣旨がおかしくなるので、"ke'a" -> "ko'e" とした。最新版でも修正されていない

例文 10.3例文 10.2より長いが、よりわかりやすいかもしれない。それぞれのレベルのふたつの "ke'a" シマヴォを書き出して、それらを代入可能なシマヴォ "ko'a" と "ko'e"(第6章で説明する)に明示的に代入しているからだ。

# note: assignable を「代入可能な」と訳したが「代入用の」と訳したほうがこなれているかもしれない

11. 関係節のシマヴォの索引

関係節導入詞(セルマホ NOI)

noi	非限定節
poi	限定節
voi	限定節(非真実)

関係句導入詞(セルマホ GOI):

goi	代スムティ代入
pe	限定関係
ne	非限定関係
po	外来(譲渡可能)所有
po'e	固有(不可譲)所有
po'u	限定同一
no'u	非限定同一

関係代スムティ(セルマホ KOhA):

ke'a	関係スムティの代スムティ
# note: pro-sumti for relativized sumti をどう訳すか

関係節結合詞(セルマホ ZIhE):

zi'e	関係節をまとめてひとつのスムティに係るようにする
# note: joins relative clauses applying to a single sumti

関係節連結詞(セルマホ VUhO)

vu'o	関係節が複雑なスムティの全体に係るようにする
# note: causes relative clauses to apply to all of a complex sumti

省略可能な終端詞(それぞれのセルマホ)

ku'o	関係節の省略可能な終端詞
ge'u	関係句の省略可能な終端詞
# possetion と ownership との訳し分けが難しい。
# 7.6 の例文の説明のところで , however. という部分があるが意味がわからない。
# note: joiner と associator をどう訳しわけるか

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