翻訳担当者: [la limna]

—co'a pinka—

[a][重城]: 試訳:

va'o lo nu te preti lo du'u ta'i ma kau se nabmi lo fatci pe lo na'e mutce darno be la tokion be'o foldi

「どのようにして」を ta'i ma kau (どのような方法で、どのようなやりかたで ) とし、 「X が Y に向かい合う」を Y se nabmi X (X は Y の遭遇する問題である) とした。

「どのようなやりかたで、... の現実を問題とするか」 といった感じ。

もっと意訳して「... のために何ができるか」とするとより簡単に訳せるが。

[la limna]: より、こなれた訳だと思ったので、ta'i ma kau se nabmiは使わせていただきます。 なおlo nu te pretiではなくlo nu pretiでいいのでは?。teで交換されるのは pretiの第1 項の「質問文字列」と第三項「質問者」で第二項は「題目」のま まなので、不要の気がします。

[重城]: .ie 確かにそうですね。te は不要です。

[b][重城]: 試訳:

.i la'e dei se klasi lo se pensi be zo'e goi ko'a bei va'o lo nu te preti lo du'u ta'i ma kau se nabmi lo fatci pe lo na'e mutce darno be la tokion be'o foldi be'o no'u lo du'u xu kau ko'a noi srana .ai gi'e ku'i gau canci se tai lo na srana cu kakne lo nu po'o gau muvdu lo djacu senta be fi'o se cpana lo klaji

[重城]: 「自分」の訳しかたとして、lo se pensi be zo'e goi ko'a によって考えてい る主体を ko'a に代入し、その後の関係節 srana .ai gi'e ku'i gau canci の x1 としている。

[la limna]: lo sevziが自分の訳として適切かどうかを脇においても、zo'eをko'aに割り当て て「自分」とするのは、少々凝りすぎな気がします。何か特殊なことを言い表そう としているような感じを受けます。lo sevzi自体のことも含めて、さてどうしたも のか・・・。

[guskant]: 「関わりを持とうとしても部外者として消去されてしまいそうになる自分には、 路上の水たまりくらいしか移動させられないのではないか? 」という文の話し 手を指すので、単に mi とすれば、この「自分」の指示対象を正確に表したことに なる。「おれ」でも「わたくし」でも mi と訳すのと同じことで、必ずしも訳し分 ける必要はないと思う。

[重城]: 僕も mi でいいと思います。

[c][重城]: 試訳:

te tai lo finti lo zgana cu vreta se tai lo nu sefta be lo tumla be'o klama gi'a na ka'e zgana

[重城]: 「姿勢」を loj訳できなかったので、より具体的に vreta (もたれる、横たわる) を使った。

[d][重城]: lo sevzi は「自我」や「自己イメージ」といった意味なので、日本語の機能語 的な「自分」や英語の oneself には使えないはず。 この意味で使っているのは、多い気がするがこれは誤用と思う。

lo sevzi cu canci と言うと、「自分を見失う」みたいな感じ。 あるいは「本当の自分を隠す」といった感じ。

ここでの表現はかなり曖昧なものがあるが、「私が無視される」といった感じな ので「自我」や「自己イメージ」といった感じではない。

むしろ、ここで使われている「自分」は内容語というよりは、「...ということ」 や「...というもの」のような形式的な語と思われる。

[e][重城]: これだと、「陸に関する表面的に動く物と類似したやりかたで」となる。 だいたいいい気もするが。

[la limna]: この場合、一つは「陸に関して表面的に動く」が「這いつくばる」の訳でいいか ? ということかと思います。あと、「姿勢」という言葉も定訳が特にないので simsaでごまかしていますが、いい訳語があれば変更するのはやぶさかではあり ません。たぶん、ロジバンの語彙不足を熟語的表現でしのぐか、語彙を作るかという ことですよね。

[guskant]: 姿勢は lo se tarti あるいは lo seltra と言えます。これには体が動く場合も 含まれますが、静止している状態であることを明示したければ lo cando seltra などでも良いと思います。

案: fi'o seltra lo za'i pe'a cadzu lo tumla lo betfu 「地表を腹で歩くような状態を姿勢として」

[guskant]: 「鑑賞者は作家と同様地面を這いつくばるような姿勢にならないと作品が見ら れない構造になっている」という論理接続表現に組み込むなら、fi'oより selbri扱いの方が良さそうですね。

stura tai lo za'i lo zgana ku ga tarti sei lo finti ku tamsmi lo za'i pe'a cadzu lo tumla lo betfu gi na'e ka'e zgana lo larcu

[la limna]: ki'e i'a mi galfi zo'e lo fanva be fa do

[guskant.2013-09-24: 校正]