翻訳担当者: [la limna]
—co'a pinka—
[la limna: ki'e do pinka]
[重城]: *1: lo が必要。pe mi zdani -> pe lo mi zdani pu galfi
[重城]: *2: gau があったほうが良い気がする御検討を fukpi -> gau fukpi ie
[重城]: *3: typo? ge -> gi'e lo se srera se galfi uo
[重城]: *4: > [la limna]: lo ckiku pe lo mi zdani cu fukpi gi'e fatri fi'o se cpana lo klaji
これだと「自宅の鍵が(何かの)コピーで、それを配る」という意味。 もちろん「複製された鍵」も「自宅の鍵」であることには違いないが、日本語の 文の意味とはずれる。
da gau fukpi lo ckiku pe lo mi zdani gi'e fatri fi'o se cpana lo klaji としては?
問題は、「A が B の複製」なのかその逆なのか、という点と、配るのは「自宅の鍵 」なのか、それとも「その複製」なのかという点。日本語の文について補足するな ら「自宅の鍵を複製して、*その複製を*配布する」ということだと思います。
[la limna: 提案ありがとうございます。ご指摘のようにPSは明らかに間違ってますが daに対応する日本語は補足しないでもよいかと思うので、単純にseをつけてみます。]
[重城]: *5: 上記「全体に関するコメント」参照
lo zukte skina と lo tigni skina あるいは lo se tigni skina の3つが今 のところの僕の候補。
[la limna: i'a vi'o lo tigni skina]
[重城]: *6: > [la limna]: pe lo mentu ...
: 上記「全体に関するコメント:何分何秒という表現 (2)」参照: すくなくとも pe は良くない。 または noi mentu ... とできないか? mentu の x1 は「時間間隔」なのか、あるいは時間間隔によって測られる「物・ 事」なのか。 mitre からの類推で、mentu の x1 は「物・事」と考えられる。とすると、noi mentu ... としたほうが良さそう。
[la limna: 制限用法でもそんなに違和感がないのですが コメントの熱意に押されて、noiにしました。]
[重城]: どうも:-) 制限用法と非制限用法の使い分けは難しいです。確かにこの場合どち らもありですね。(重城)
[重城]: *7: 上記を考慮した試訳
de'i li renopare fi'o vreji lo tigni skina noi mentu li pamu pi repa ju'u xano
[重城]: *8: > [la limna]: .i le nu fukpi be lo ckiku pe mi zdani be'o kei se cpedu fu lo ckiku zarci
-> .i lo nu fukpi lo ckiku pe lo mi zdani cu se cpedu fi lo ckiku zarci
まず、現在では特別な理由がなければ le nu ... よりも lo nu ... を選ぶべ きと思われる。 僕の理解では le は心のなかにあるものを描写によって指し示すのに対して、 lo は描写によって心のなかに像を作る、といったニュアンス。le は描写によるあ る種の「名づけ」であり lo は「定義」といった感じがする。 次に fukpi be lo ckiku の be は不要。 pe mi zdani ではなく pe lo mi zdani。 lo nu broda kei brode は lo (nu broda kei) brode となり nu broda と brode は tanru を形成してしまう。 よって ku を追加するか、あるいは cu で大きく切る必要がある。 cpedu は僕の参照している辞書では、 x4 までしかない。また x3 が頼まれる者だ と思うので、fu -> fi
[la limna: ue du'e lo mi srera]
[重城]: *9: le -> lo
le nanmu だと、心のなかに先に像が形成されている感じ。例のその男といった感 じ。 この場合、話者が鍵を配っているときのことを思い出して、あの人とあの人に配っ たな、という感じで言っているのなら le。 しかし、こと場合はもっとニュートラルに「見知らぬ人」と言っているので lo が適当かと思われる。
[la limna: i'a]
[重城]: *10: ti -> lo di'u fukpi
ti だと空間的な「これ」。こういう場合、cy. とかで前の sumti を指すことで解 決することが多いが、今回はダメ。cy だとマスターを配ることになってしまうの でコピーの方を指す必要がある。 単に lo fukpi とするか le fukpi とするか、または lo bi'u nai fukpi とす るか。 僕の好みは lo di'u fukpi として「前に言ったことに関連した鍵」とするも の。
[la limna: galfi zo'e lu lo fukpi li'u]
[重城]: *11: .> [la limna]: i lo judri cu na'e te djuno .i je lo ckiku pe lo mi zdani cu flecu secau lo datni be lo du'u mokau bei lo ckiku bei fi'o se diklo makau
-> .i lo judri na te djuno .i se ni'i bo lo ckiku pe lo mi zdani cu canja se flecu secau lo datni be lo du'u lo ckiku mo kau tu'i ma kau
まず、多分 na'e は直後の語にかかるので、na'e te だと「te 以外」となってし まう。 te na'e djuno としても、「知る以外」ということで、たとえば「知ってはいない けど推測はできる」等の含意を持ってしまうかもしれない。つまり mi na'e cadzu だと「歩く以外」で「走った」のかもしれない。ここら素直に na te djuno としておいたほうが無難だろう。
[la limna: i'a]
[重城]: また、「ので、」が訳出されてない。ここはまさに「ni'i を使うのはいつ?今でしょ 」といった感じ。
[la limna: mi cusku da zo'e zo ije
ijeでは、弱いですかね・・。 mi na galfi]
[重城]: flecu の x1 は「流れ」で x2 が「流れる物」なので se が必 要。また「流通」だと canja をつけたほうが良い気がする。da canja se flecu で da が流通する、といった感じになるか。
[la limna: ie vi'o]
[重城]: lo datni be lo du'u mokau bei lo ckiku の2つめの bei は be の typo? いずれにしても lo du'u のなかで、be 等は不要かと。
[la limna: typoというより、単に翻訳中の消し忘れでした・・・。]
[重城]: また、fi'o se diklo には se di'o があるのでそっちを使うべきだが、それだけ でなく、tu'i (stuzi の modal) の使用も考慮してみてください。stuzi と zvati の関係等、なかなか難しいところがありますが。
[la limna: pilno zo tu'i]
[重城]: *12: > [la limna]: .i lo nu zbasu lo tcini be(13) lu lo ckiku pe lo mi zdani cu ze'e(14) se ponse le na'e(15) srana prenu poi mi na'e(16) djuno li'u be'o cu stidi(17) li'a(18) le fatci na'e se cumki(19) be lo nu kansa jorne(20) e lo nu gunma ponse(21) bei gau(22) le na'e srana prenu(23) be'o
[重城]: *13: tcini の x2 はその状況に置かれた物で、状況そのものは x1 なので be でなく no'u la'e lu ... とすべきかと。
[la limna: i'a]
[重城]: *14: ze'e は 時間間隔の全てを示す。ze'e pa roi klama はだいたい「生涯一 度だけ行く」を表す。この場合、ある時間間隔のなかでの「常に」=「持続して」 なので ru'i のほうが良いと思う。
[la limna: i'a]
[重城]: *15: na'e は「...以外」なので srana 以外の何かがあることを暗示する。na srana のほうが良いと思う。
[la limna: i'a]
[重城]: *16: ここも na'e より素直に na を使ったほうが良いかと。「『知っている』 ではない」だと下手すると「『知っている』どころではない」->「親しくつき あっている」と解釈することさえできそう。(ただし親しくつきあっているなら ば「知っている」はずなので、やや無理はあるが、理解しやすさのための嘘という ことで、ニュアンスを伝えたいということ)とにかく、na'e で余計なニュアンスを 入れるよりは na を使ったほうが良さそう。
[la limna: i'a
ku'i 今回の場合は、ご指摘部位は、ほぼ置き換えられますが naとna'eの使い分けについてはna'eの係る範囲(単語)と naの係る範囲(bridi)が異なるため、ニュアンスとは別の観点で 考えるべきところもあるので要検討だと思います。
一般的に、ニュアンスをわきに置いて、 naが対象としない部分否定を行うために na'eを使うようなケースは多いと思います。 (代替手段がなさそうであるため)]
[重城]: *17: stidi は「x1 が x3 に x2 をさせようとふるまう」といった感じ。「示唆 する」の意味のうち「そそのかす」のほう。「暗に示す」のほうではない。
[la limna: ie mi galfi zo stidi zo jarco]
[重城]: *18: li'a は談話系なので「明らかに示す」ではなく「明らかに、示す」のほう。 つまり、文全体を修飾するのであり、selbri を修飾するのではない。これは、文のどこについていても同じ。文のなかのどこが明らかであるかは場所によって示せる が、全体の意味は「明らかに私の主張は正しい」といった意味。その正しさの焦点 は変えられるが。「この事実は X を明らかに示している」と「この事実は X を、 明らかに、示している」の違い。
[la limna: uanai ご指摘いただいている点が、よくわかりません。
例えば、「ku'i」も談話系ですが、係る位置によっては 文全体にかかるとは限らないと思います。
試訳のklinaについては、私も始めそのように割り当てましたが よくよく考えてみると英語的な訳だと思ったので、やめました。
例えば、日本語でも透過的と明らかというのは異なります。 「明らか」というのは、明るさの比喩ですし。]
[重城]: *19: cumki の x2 は条件であり「あり得る、あり得ない」の対象となる事では ない。「現実的な不可能性」は lo fatci ka to'e cumki あたりでどうだろうか。 ka na cumki とどっちがいいかはわからないが、na'e cumki はまずい。可能性以 外ということで、もしかすると実現しているということを示している可能性すら ある。(これには上記で述べたような問題点はあるが)
[la limna: galfi fi lu le fatci ka na cumki li'u]
[重城]: *20: kansa jorne だと「(何か他のものに)一緒に結合している」感じがする。 jikca jorne (社交的につながる)はどうか。
[la limna: i'a]
[重城]: *21: gunma ponse よりも、「他者*との*」に注目すれば、kansa ponse のほうが 良さそう。僕の試訳では ponse co kansa によって co の力を生かしてみた。
[la limna: i'o]
[重城]: *22: gau は agent を示すので、これだと「他者がなしている(実現している)共 有」等になってしまう。つまり gau X の場合、その bridi を成立させている者が X であるということだろう。
[la limna: galfi zo'e lu fi'o kansa li'u]
[重城]: *23: 単に他者と言っているので「関係無い者」と言うよりは「自分でない者 」という意味で良いかと思う。とすると lo drata (be mi)。異質さを言おうとす るならば lo frica か lo fange。
[la limna: ie lo drata]
[重城]: -> .i ta'i lo nu zbasu lo tcini no'u la'e lu lo ckiku pe lo mi zdani cu ru'i se ponse le na srana prenu poi mi na djuno cu klina jarco lo fatci ka to'e cumki ku ne lo nu jikca jorne gi'e ponse co kansa vau lo drata
[guskant.2013-09-24: 校正]