翻訳担当者: [萩原]

—co'a pinka—

[bh][萩原]: どう訳す?

[guskant]: ru'i po'o ku fi'o pamei [vo'a/ku] [fatne farna cadzu/fa'a lo fatne cu cadzu] ?

[萩原]: 「一人で」はnonkansa のほうがわかりやすいと思ったので、保留。 ru'i po'o は採用

[bi][萩原]: デモ(行進) nunja'odzu (nu jarco cadzu)

[bj][萩原]: 原発 = ratdicfanri (ratni dikca fanri)

[重城]: *1, 2: ダブっている。訳の候補の消し忘れ? 1 の vi'a miltre ... fa'u ... のほうが良さそう(全体への提案にも書くべきか)

[萩原]: - 消しました - H

[重城]: *3: poi vreji prina の vreji は必要? ここらへんは好みの問題なので、訳者 の判断にまかせますが。

[重城]: *4: 「パフォーマンス」に tigni を使うか zukte を使うかは悩ましい問題で すね。 「行為」なのか「演技」なのか。「見せるための行為」をすべて演技と考えるな らば tigni のほうが良さそうではあります。lo nu tigni = lo nu jarco zukte と考えることができるか。また、nu の必要性ですが、あったほうが意味が明 確になりますが無くてもいい。「正確さ」と「簡潔性」のトレードオフがありま す。ただし、この場合、tanru を選択した時点で「正確さ」は大きく損われています。 よって「簡潔性」を重視して、nu を使わずに、lo tigni skina が良いかと思いま す。僕のところと guskant さんのところでは lo zukte skina を使ってますが、 僕としては、lo tigni skina のほうに傾きはじめています。guskant さんの意見 も聞いて、zukte とするか、tigni とするか、また nun をつけて lujvo 化するかど うかについて考えてみたいと思います。(これも後で全体への提案に移動させる )

[萩原]: - tigni skina にしておきます - H

[重城]: *5: typo? goi -> go'i? そして go'i だったら、lo go'i cu mentu ... とい うこと? 上の解釈にそって、論を展開します。まず、go'i の定義から。go'i は直前の *sentence* bridi を repeat します。「直前の bridi」ではありません。CLL 7.6 の例文6.13 の直前の " no'a" , unlike the other members of the go'i-series, can repeat non-sentence bridi が根拠です。そして、ここでは to ... toi のなかで使われていて、その to ... toi は文のなかにうめこま れています。よって、ここでの go'i は前の段落の文を指すことになります。よって、 nei を使うことになりますが ... (それでもうまくいかないという話が続く ) 上の論は goi が go'i の typo という前提での話ですが、それよりも noi の typo と考えた ほうが考えやすいと思い、途中でやめました。to のなかで noi を 使った場合にどういう意味になるかは、僕にはよくわかりません。to が日本語で (たとえばこんなふうに)かっこを使うのと同じように使えるのならば、to noi mentu ... toi は正当ですが、多分、lojban の to ... toi はより独立性が高 いのではと思われます。なのでより保守的に単に to mentu ... toi と書いて おいたほうが良いように思います。

[萩原]: - はい、noi のタイポです。英語では非限定的カッコ書きで (which is ...) とよくやるのでそれと同じニュアンスです。to mentu .. toi でも良いので すが、それだと括弧の外と括弧の中の関係が曖昧なので、あえて noi を入れ てあります。(でもそれなら、括弧はそもそも不要という話しもある) - H

[重城]: *6: lo mentu li pano pi'e nopa とするか li pano pi nopa ju'u xano とす るか

pi は default では10進数の小数点となるのではないでしょうか。どちらにする かは難しい問題です。片方は簡潔だが不正確、もう一方は正確だが、煩雑。この「正確 さ」と「簡潔性」のトレードオフは永遠のテーマだと思います。今回のこのケー スでの僕の提案は、この2者を混合させたままにする、というものです。4つの観点か らそれを支持します。まずはすでに述べたように「正確さ」と「簡潔性」のトレ ードオフを考えたときに、両者には甲乙つけがたいという点。2つ目に、そもそも原 文に表記揺れがあり、見ようによってはこれも作品の味と考えることができると いうこと。3つ目には、今回の場合、意味が明確であり「同じことを指している」と いうことが、だいたいわかるということ。4つ目には、lojban の様々な表記を紹介で きるということ。「多様性は善」とする考えかたと「多様性は罪」とする考えか たにはどちらにも、正文性があります。よってケースバイケースで「統一」するか as-is としておくかを選ぶ必要があります。(これは後で全体への提案に移動)

[萩原]: - Lojban 的な慣例はわかりませんが、「分」の小数点といえば「秒」だと思う ので、個人的には簡潔さを優先して今のままでも良いかと思います。もちろ ん、それだと「10.01分」(=10 + 1/100分)と区別が付かないという問題 は認識しております。 - H

[重城]: *7: to lo vi'a miltre li ... toi の lo は不要と思われる。または、lo を入 れるなら be が必要。

[萩原]: - ki'e 修正しました。

[重城]: 疑問文の答え以外の smuti だけの文をどう解釈するかは決められていないと 思われますが、selbri として暗黙の co'e を持つと考えるのは無理のない見方 かと思います。それを前提に論を進めますが、lo をつけた場合 lo vi'a miltre be ... cu co'e となり、「... 分である物が何かである」という意味になりま す。それに対して lo をつけずに to vi'a miltre li ... toi とした場合、「 zo'e が ... 分である」という意味になります。これは日本語の文を一見して 感じる以上に後者のほうが strict です。わかりやすい例を挙げるなら、前者では 「... 分である物が存在しない」という可能性もあります。そして、これは比較的 自然な解釈です(以下と比べて)。「存在しないものが ... 分である」とも言え るとの反論も許されますが、これはあまり自然な解釈ではありません。ここでは、 mo と ma では ma のほうがより strict と言えるのではないか、という感覚に 訴えることにします。この場合 lo と be を vimcu することで「正確さ」と「 簡潔性」の両者が増すので、そうするべきだと思います。100歩ゆずって、「正確さ 」が同程度であるとしても「簡潔性」が増すので、結論は同じです。(これも全体 への提案に移動すべきか)

[重城]: *8: cadzu の場所構造について すくなくとも僕の参照している辞書には cadzu の場所構造として目的地、出発 点はない。cadzu klama か単に klama を使う必要があるのでは? cadzu の x2 は 「... の表面を」なので、X から Y までを x2 に取るのは無理があるので は? [guskant2013-07-11: 元の訳文のlo krasi bi'o lo fanmoは、cadzu x2 と見て 問題ない。lo krasi bi'o lo fanmoという表面を表す。]

[重城]: *9*10: lo krasi と lo fanmo について krasi は何かの「起源」ということで、先頭というよりは「出発点」といった感 じがする。同様に fanmo は終了なので「最後尾」というより「目的地」といっ た感じか。先頭と最後尾なら一案としては lo stedu pe'a と lo rebla pe'a と するか、より正確には、lo li'enrai (lidne + traji) を先頭とし、lo tolyli'enrai (to'e lidne traji) または lo selyli'enrai (se lidne traji) としたらどうか。

[萩原]: 確かに krasi と fanmo だと「デモの出発地・目的地」と誤解されそうですね。 「竜頭蛇尾」的に stedu pe'a rebla pe'a が好きです。 あと、上のは bi'o で問題ないと個人的に認識しておおります。 - H

[重城]: *11: typo?: nunkansa -> nonkansa

[重城]: *12: toltugni について tugni は命題が真であるということへの同意なので、原発が存在することが正当 かどうかという意味での同意ではない。たとえば「地球が自転している」という ことへの反対のような科学的な反論には使えるが。今回のような使いかただと、「 原発の存在」そのものを否認しているというニュアンスがある。ここでは pante のほうが良いように思う。

[重城]: *13: 新宿: 上記「全体への提案」参照のこと

[重城]: *14: 原発: 上記「全体への提案」参照のこと

[重城]: *15: 上記を考慮した試訳 .i nonkansa klama lo selyli'enrai lo li'enrai sefa'o lo ke pante ratnenfanri ke'e barda nunja'ozu bu'u la cindjuk.

[guskant.2013-07-11: - klama のx2, x3 としても良いが、移動過程に重点を置 くcazduの方が「逆走」に近い意味になる

- 「ひたすら一人で」はbridiを修飾するので、nonkansaをseltauとするよりも、 sumtcitaでtermを作って入れると意味が明確になる。

ru'i po'o ku 「ひたすら」

fi'o pamei mi 「ひとりで」mi を省略してkuで切っても良い

- 造語をせずに「先頭から最後尾までを」をca'u bi'o ti'aというsumtcitaで 表すと、意味が明確になる。

この場合、「前方・後方」が意味を持つのは「デモ行進」という事象ではなく「 デモ行進者たち」という人々だから、 loi ... ja'odzu というsumtiを使う。 人を指すから、bardaの代わりにloi so'i...とする > ke ke'eは不要になる この場合「逆走」の「逆」は「先頭から最後尾まで」と同義なので、両方を1つ のbridiに入れると、逆の逆で正方向であると解釈できる恐れがある。 「逆」を訳出するならsei va'i fatne [se'u] などの形で、bridiの意味への影 響を避ける方が良い。

.i ru'i po'o ku fi'o pamei mi cadzu ca'u bi'o ti'a sei va'i fatne se'u loi so'i pante ratnenfanri ja'odzu be bu'u la cinjuk ]

[萩原]: おっと、ここにもまだコメントが。色々と納得しましたので、基本的にこの訳 を採用させていただきます。ただ、sei va'i fatne が良いかどうかはちょっと わかりません。日本語で「先頭から最後尾まで逆走する」と言った時、逆の逆 で正方向と解釈する人は(よっぽどへそ曲がりでない限り)あまり居ないと思 います。単純に fatne cadzu でどうですか? - H

[重城]: *16: lo ralci se cusku je nunfirsku について(順番と nunfirsku 自体につ いて)

とくに理由がなければ原文の「表情やメッセージ」に合わせて lo ralci nunfirsku je se cusku のほうが良さそう。また、辞書には expression が nunfirsku になっているが、これは firselsku のほうが良いのでは。cusku の x2 は se du'u となっているが、これは du'u 以下の内容を表す「文」という意 味であり、その「文」というものは表現としての「文」なので、x2 を表現そのも のと考えることは無理のない拡張だと思う。cusku の x2 は「文」にかぎらない 「表現」と考えることは、一貫性のある美しい拡張に思われる。

[萩原]: - ki'e H

[重城]: *17: typo?: fadri -> fatne

[重城]: *18: 「... かのような素振りで」: tarti の cadzu への修飾関係をどう訳 出するか

どちらがいいかわかりませんが、gi'e でつなぐと「逆走」と「ふるまい」が並 列な関係に見えてしまう。僕ならば、fau lo nu tarti または、fi'o se tarti lo nu ... とする。

[重城]: *19: 上記を考慮した試訳

.i viska lo ralci filselsku je se cusku be loi se cuntu poi se cpasu ca lo nu le pa nanmu goi ko'a cu fatne cadzu seru'u lo prenu fi'o se tarti lo nu ko'a na ckini lo nunja'odzu selcku

[重城]: *20: go'i だと直前の文を指すので「...を捉えていったことで」となってし まう

この場合「表情やメッセージを捉えていったこと」というよりは、ここまで述べ てきたこと全体、あるいはここで述べていること全体によって、ということだと思 うので go'i 類よりもより vague な la'e di'u や la'e dei を使ってもっと 曖昧に表現したほうが良さそう。di'u や dei は sentence に限らず、もっと範囲 が不明瞭な utterance を指す、と CLL にある。

[重城]: *21: porpi は x1 が x2 に分解する だと思うので、 porpi fa lo ... のように fa が必要。また、ここはどっちがいいか決めかねる が porpi の前に gau を置くことも検討してみては? ただし、僕の見ている辞書 と異なる定義があり agent ありの porpi の定義も存在するのだとしたら、どち らを選択するかは訳者におまかせします。

[重城]: *22: 上記を考慮した試訳

.i ta'i la'e di'u troci lo nu gau porpi fa le nunja'odzu noi gunma fasnu lo se cuntu sevzi klani

[重城]: *23: 「それすら」を訳出するのに、ここに po'o を入れるという案

「逆走することだけで」といったニュアンスで

[重城]: *24: 「なり得る」を訳出するなら、ここに ka'e を入れたらどうだろうか

ただし、意図的に訳出していないのならばこのかぎりではない

[重城]: *25: 上記を考慮した試訳

.i se finti ji'u lo sidbo noi du'u lo nu cadzu po'o sefa'e lo nunja'odzu poi jarco lo pa jecta notci kei ji'a cu ka'e drata nunja'odzu (15のコメント終了)

[guskant.2013-07-11: > [重城]: lo sidbo noi du'u

-> lo si'o (概念抽象) で良さそう

「それすら」をlo nu cadzu po'o にすると、歩く以外のことはもうひとつのデ モ行進になれないことを表す。これは原文の意味と異なる。

元の訳文にあるji'a は、すでに追加のデモ行進「それも」を表している。これに saiまたはba'eを加え、ji'asaiまたはba'eji'aとすれば「すら」という強調を表 せる。 ka'eがあればcuは不要

.i se finti lo si'o lo nu cadzu sefa'e lo nunja'odzu poi jarco lo pa jecta notci kei ji'asai ka'e drata nunja'odzu ]

[guskant.2013-09-24: 校正]